- 人の常、吉か凶か、今わたしが撲ってやりたい男 -






 半月風邪のため殆ど人にも会わずいたのだがふと耳にした件でわたしは今、撲ってやりたい男が一人いる。男はわたしの事を勝手に想像しそれを時に呑んだ相手に言ったという。この男が<歌手>であるのみならず近頃役者でもあるのが駄目だ。或る場面での氏の失態をその時その場に居た人びとに噂されることを危惧し保身、否、言訳のためにわたしを引き合いに出し利用している氏の意地は小さい。
 これが人の常、常といえば世間、そうして世間といえば噂、と、出物腫物所かまわずだかなんだかと言いたいが、凡そそのような問題の出所は恥をさらした当事者が自らの尻拭いを目的とした自己防衛という野暮な形式をとったはなはだナサケナイ愚行としての常套手段で、それは、それを受けた側からは思いもしない言いがかりとなるのは当然のことで、ハタハタ迷惑な贈り物であり、世間では時に、このような他者からの失礼を<名誉毀損>と名付ける場合もある。
 わたしはここのところ、案外忙しくかつ充実しながら慎ましく暮らしていた。それなのに、こうだ。つまり、静かに在る人をそっとして置かず、数年前の事を未だ抱き、他者へ無闇に唾を吐いて廻って生きる人が余所には在る、ということだ。そこにわたしは不平を持った。何だそれは、迷惑千万、一発、くらわせようか、と、その男に思ったのだ。
 その晩、つまり、わたしが撲ってやりたい男の噺というのは、数年前の暮の晩の事で、その人にとっては初めて会うひともあり、そしてそういう状況の時、その男は(氏を知る人たちにとっては、ああ、また始まったと見守るのが常なのだが)、何かと悪ぶるのが定番なのだが、それにしても、あの年末の晩の氏は、確かに酷かっただろう。
 だがそれは自業自得なのである。誰が善で悪ということでなく、潔くない様子とは、他者からの同情は得られぬからね。
 氏は、年齢を重ねるほどに<挨拶>が丁寧にできない人となりはじめているようでわたしは悲しい。
 本当の氏は、心遣いがある者のはずであろう、が、それを素直に表さない、表さないのは本人の勝手だが、他人を撹乱しないほうがいいと、わたしは感じて久しく、そうしてわたしどもは、わたしども、というのは氏を知るわたしの周囲の人びとのことだが、それを寛大に受け止めてきた、のだ、と、思うが、如何に。
 が、なんなのだろう、氏が作品を発表し、それが良い作品であることもわたしたちは知る、そして近頃、役者活動もされ、わたしはその作品をとてもよいと感じていた。
 それなのに、こういうことを彼はした。
 わたしについて言うこの彼の行為をわたしが知ることになったのは、家人が聞いてきたことによるのだから、厭なもんじゃないか。それ以上でもそれ以下でもない、ただ耳にした噺だが、愉しくないのだわたしはね、それが。
 それは粗相だろう…漏らすなかれ、あなたの… を、と、わたしは言いたい。


 ところで古くから女性たちは口の軽い殿方を信用しない。であるのに、昔など、女はおしゃべりで…などという云々もあったやもしれないが、今やどうか、例えば呑んだ席で噂話に花を咲かせるのは女性たちよりもむしろ男性たちと思って間違いはない気がする。21世紀、女性たちは会合しても噂話よりむしろ励まし合ったり、憧れを語ったり、真剣に仕事や家族、社会、未来の話をする(人に寄ると言われたら仕方が無いがわたしの知る女性たちは、そのようである)。では噂話と悪口は紙一重だが、わたしが呑む席で伺うのは、殿方の口から出る噂話や悪口は呆れかえるような内容もある。21世紀の殿方はなかなか、想像力に満ちていると評価したいが、話の仕方について、おおよそ酔っている殿方の中には、だんだんはしたなくなっていく姿も見受けられるので、例え佳いことを話しているとこちらが承っていても、どうしても呆れながら拝聴するのがこちらとしては楽ではある、こちらつまり、わたしは(これでも)女であるゆえ、効率よく人生を営んでいかないと駄目だからである。
 何かをしたからといって、仕事をした顔でいるわけにはいかずそれは当然の範疇であり、また、何をしていると訊かれても特に返答しても徳にあらず、ただ、ひととしているだけで、それはみんなおなじことだろうと思う。
 彼のひとは、音楽業で暮らして長いが家事もされている殿方であり、そのあたり立派だと感じ入っていたのだが、わたしに対しての無礼というだけでなく、仕事が長くなり積まれてきた成果ゆえか、以前にも増して年功序列的、男社会的面が目立つのも感心できない。
 余談だが、昔、或るコンサートがハネた席で、その公演で演奏された或るミュージシャンの方が同席していたわたしに向かって、「今日仕事をしたアーティストにお酒を注いであげなきゃ」と、それは愛想だったのだと思うが、そう、わたしにおっしゃったことがあった。演奏を披露する人たちにとってそれは仕事であるが、それを観に来た人たちはお客さんとして彼らを応援し、また、その出演者たちの仕事を日頃、或いはその日に心を寄せ支援している人たちも同じ人間なのである。<アーティスト>だから労うというより、では<アーティスト>なのなら当たり前に今日の仕事をしただけで、それは会社に勤める人たちも学校で一生懸命一日勉強した人たちも誰も彼もお疲れさまということで、特別な存在ではないとわたしは考えてきた。一々日々の仕事で日本国中の仕事人が打ち上げていたら、さぞかし日本の酒場は儲かり、日本人は毎夜まいよ誇りを持って眠れることだろう。だが世はそうでもない。常にそうであったら吉と言われよう。だからわたしは凶でも平気で暮らせるような面の皮の厚いものになろうとして、しかしこうして怒ってみたりしながら、痩せた身体を転がしているのである。
 わたしは正直、昔から、<アーティスト>という外国の言葉を使用する日本語が好きになれなかった。日本語として、<芸術家>という言葉があるのだから、その仕事に携わる、もしくは、関わっていると思うなら、そう言う/呼ぶことの方が親密だろうと感じていた。
 だが、この国の人びとは片仮名の文字で言い表す言葉を促進し、そのために職業における根本的な姿勢を見失いそうな場面もありそうで不安だ。� 
 わたしが撲ってやりたい男、その人は、古風な日本男子であろうとしているようなところもあるのだが、新しさと望郷の狭間に在って、今、森の中に迷っているのやもしれない。
 そう評価するなら、それも在りだろう。
 何しろわたしは、その男の将来など、面倒みる立場になどないのだからして。
 だが、名誉毀損、だけは、厭だね、場合によっては、告訴したいね(笑)。

 
 きっと、わたしを比較的よく知る人たちには、その、わたしが撲ってやりたい、と思った殿方が誰なのか、お解りかもしれない。
 怒るのも、たまには愉し、おかげで元気を取り戻したような、と今日は書いて置くが、それいじょうに、呑み癖の悪い男に打擲を加えることも世の女性にとって、少しは快感かもしれなくてね。 
 あなたのカミサンに、感謝して。
 文句のある人は、ここ<葡礼荘>へ、どうぞ、いつでもふたり、お相手いたしますゆえ。


 写真はわたしが時々お参りする神社の御神木。欅である。700歳といわれているその姿、或いは出っ張りの部分が女神のように見えるのだが、先日、抱きしめたくなりながらも、8mの太さゆえ大袈裟な気は起こさず、ただ樹木の中を揺れ動く流れを感じてみようと手を当てた。
 それは午前10時、曇った日のことだったが、樹が持つ温度はわたしが想像したものより、暖かく感じた。



 
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