- 幾つもの魂を持つ人のように、狂ったように生きてみたい -






 人聞きの悪いものを綴り怒ると熱となるのか、元気が生じた、と思いきや、先週末、本意でないのだが事情あって実家の方よりインフルエンザのワクチン注射をせよと命じられやむなくそれをしたら以来よく目が見えない。及び目眩、頭痛と腑抜けのような状態に在り、今も注射の痕は痛痒く腫れている。わたしはこういうものを余計なものと定義するが、世間ではこれを余計とするより安全とすることもあるらしい。被る前から備えることが得策と考えるのは人の賢さで、被って初めて知るのは愚か、と、そうさ、わたしはその愚かの部類にあるのだからして疫病に感染してのたうち回って死ぬのも覚悟なのである。が、それを他の誰かにまき散らすことは駄目なのだと、そういう行為は身勝手なのだと言われてしまえば、インフルエンザワクチンにいかなる物が混入されていようとも、わたしはわたし自身の命よりも、それによって被害を被る周囲の人びとの健康のため、ワクチン信者のため、意向を投げてみても平気だ。どうせわたしなんぞの命である。ここまで生きてこられただけで儲けもの、この先、生き伸びてしまってのち、そういうことこそ、末恐ろしいと、考えれば楽だろう。


 何を見ても、焦点が合わないのだから、こういう時、音楽が出来て良いと感じた。わたしはピアノを弾いた。小さな子供の頃から、それは馴染み自分事として弾いてきたので、鍵盤の上を指はただ、動く。わたしがよい弾き手かどうかはここでは問題ではない。そこ、が解っているから指はただ動き、心もただ動く。わたしは歌も歌った。歌えと言われればなんでも歌うし、歌いつづけたものもいろいろある。実にわたしはこの一年、朝の9時過ぎに、或る授業をしながら、歌を歌う。わたしが歌うこと、それはわたしの生活でありつづけたことだから、愉しい。目が見えなくても、音楽はなかなか楽しくわたしの生を助けてくれるのだろうと未来を見る、悪くはないだろう。


 そうして、よく見えなくとも、こうして自分が何か書いていることも出来る。書くということはわたしが生きていることを表していると言いたいが、今、綴っているような文章はあまり感心できないとわたしは思って書いている。そういうこともわたしなのだと思ってみようと思うがそれでもあまり感心できない。わたしには、もっと、片隅、と見なされるような、わたしが書いてみたいと模索してみる必要のある悪戯なことがあるのではないかと。
 例えばそれは、わたしがする、こういうことにも繋げられる。
 写真は或る日の晩餐。有り合わせのもので済ませたい。だが、一品ではつまらない。有り合わせを一纏めにしたら、つまらない。では、有り合わせを複数にするようにしたら楽しい、地味な甲斐がある。つまりそれ、ひとつがふたつになるようなこしらえ、それ、素直に、少し考えるための人間の気分の戯れである。


 人は、ひとつのことをするだけでなく、同時にふたつくらいのことをしていた方が、脳にもよいのだとか。
 というわけで作った李早風カエサル・サラダ、白菜とハムのグラタン、バゲット添え。本当はシコンのグラタンにしたかったが、シコンを白菜で代用した。
 ジャガイモ、レタス、人参、玉葱、白菜、それからハムなど利用すればひとつの鍋でもこしらえることはできる。だが、それらの食材を使ってふたつの献立にしたててみると、卓上が少し広がった印象となり、それらをつつきながら食事の時間も長くなり、お酒や会話も進む。
 わたしの時間とはそんな風に、ひとつがふたつ、欲をいえば、ふたつがみっつになるくらいのことを思うままにやってみるばかりに、それは余分な道を探し求めているようなものなのだが、そういう道草のような意識の流れの積み重ねなのだと最近感じた。
 できれば、幾つもの魂を持つ人のように、狂ったように生きてみたい。




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