新宿の夜

 混雑した夕刻の新宿駅の地下を改札に向かいながら、彼は彼女と手を繋いだ。
「はぐれないように」と言い、彼は彼女に笑いかけた。
 女は微笑しながら男の左手に自分の右手を絡ませる。
 ずっと東京に暮らしているのだから、そして子供ではないのだから、はぐれる、なんてこと、ないのにね・・・でも、この人は仕事以外で私と出かける時は、こんなことをすぐにする、昔から。

 男は音楽家、ギタリストである。だから男の左手の指先は少し硬くなっている。が、掌はまるで羽根枕のようにフワッと女の右手を包んだ。彼女は今更ながら、これほど彼の手が柔らかなことに感激しそうだった。何故なら、彼女の手はゴツゴツしているのである、小柄な男性の手よりも骨張っているかもしれないし、血管が浮き立っている。ワイルドな手だと、彼女は感じながらも、その自分の手を嫌うつもりもなかった。そう、彼女の手も、一種の仕事人の手、鍵盤を彷徨う手、神経の発達した躯の部分、なのだから。

 東口の改札を抜け、待ち合わせの人でゴチャゴチャしている駅前を通り抜け、交差点を渡る。男の足はやや早歩きである。女はまるで糸で引かれる人形のように男の躯半分後で歩を進める。女の躯は軽いのである、目下、体重、38キロとちょっと、身長は158センチと並であるし、面やつれしているわけではないが、精霊のように軽い。
 二人とも、帽子を被り、黒いセーターにジーンズ、そしてP・コートを羽織っている。男は"SCHOTT"のPである、彼は若い頃からこれを愛用している。女は"BURBERRY"、ピンクと白の織り生地のP。

 靖国通りに出る、花園神社は酉の市だ。大通りの舗道にも屋台が出ていて赤い提灯が幾つも灯っている。日本人なら誰でも知る光景だが、この日、彼女はその灯りと賑わいをとても東洋的だと実感していた。花園神社の脇の小径を歩きながら、「酉の市、覗きたいな・・・蛇女、いるかしら?」と、彼女は思わず口走ったが、今から二人が向かうのは別の場所だ。時間はない。

 男はゴールデン街をスタスタと歩き過ぎる。小さな店の中には、ポツポツと人の気配がしていて、それらの客は、実は案外若い人も多い。辺りは暗くなっている、紙人形のような彼女、呑みたい、と正直、思い始めている、彼女にとって、そういう時間帯なのである。

 日清の交差点を渡り、新宿文化センターに到着したのは18時半を少し過ぎた頃だった。『スタンダードナンバー』と称されたコンサートである。主に、昭和40年代の歌謡曲やCM曲を演奏、かつ歌うという演目。このコンサートのオケを担当しているのは、鈴木惣一郎氏率いる"ワールドスタンダード"。この"ワールドスタンダード"のメンバーである藤原真人氏のお誘いで、彼と彼女は11月24日の夜、このホールに遊びにきた。音楽監督は、惣一郎氏である。
 歌手たちはそれぞれ二曲ずつ程度歌って、引き継がれる。昭和30年代後半に産まれた彼と彼女には、どれもこれも懐かしい楽曲である、テレビから流れた楽曲たちである。この晩の歌手として出演した人たちは、たったひとりの人を除いてほとんど昭和30年代後半以降に産まれた人たちであるが、そのたったひとりの人、とは、由紀さおりさんだった。この由紀さおりさんの"夜明けのスキャット"を、こんな風に生で聴く事になるとは面白いこと、と、彼女は真人さんに感謝していた・・・ホントよ。

 終演後、シガレットを吸いながらホールの裏庭でひと休みしていたが、彼と彼女はわざわざ楽屋には顔を出さなかった。きっとゴッチャかえしているはずよね、ロビーで合えたら挨拶いたしましょう。そういうつもりでいた。
 のだが、二人は何となく、いや、すでに、ビールあたり、呑みたいのである。
 ホールを出て、中国料理店にヒョイと入る。何とも今時ではない懐かしいムードの中国飯店である。瓶ビールと生ビールをそれぞれ注文し、餃子、春巻き、ニンニクの芽と鶏肉の炒め物など、突いていた。この店の従業員は全て中国人らしい。客とのやり取り以外、厨房やカウンター内では上海語が飛び交っている。上海語、これは北京語とニュアンスが異なる。
 彼が真人さんに携帯から電話をした、「お疲れ、今、近くで一杯ヤッてるけど?」
 ところが、珍しいことに、当の真人さんは、もうすでに電車に乗り、帰宅途中なのだとか・・・「何だか疲れちゃったみたいでさ」・・・ということらしい。それを、中国料理店にいる二人は、察することができた。

 男と女は店を後にした。しかし、まだ23時。外には雨が落ちていた。
 帽子を被っている二人には、雨はあまり感じられない。濡れている感覚は、ない。
 ふと、彼が言った。
「朝まで営業している店が歌舞伎町にあるって聞いたんだけど、ちょっとそこに寄って帰ろうか?」
 別に、朝まで歌舞伎町にいる必要はないのである、二人には帰る家がひとつ、あるのだから。
 だが、その酒場を訪れる機会として、なかなかいいタイミングではないか。

 女は夜の歌舞伎町をほっつき歩くことなど、滅多にない。久しぶりである。一々、そこに見える光景に浸透していく・・・23時、都会ではまだ宵の口、でも、どう? 例えば、ヨーロッパの大都市でこの時刻にこんなにギラギラ明るく光っている都市は、そんなにはないわ・・・とても日本的、とても東京的、とてもアジア的・・・。
「ねえ、こんなに明るい夜は、新宿とか大阪の日本にしかない可笑しな魅力よね? ・・・ロンドンもベルリンもウィーンもプラハも・・・どこもこの時間は、もっと暗かった」と、彼女が彼に尋ねれば、
「いや、東京や大阪だけじゃない、"すすきの"や那覇、それから仙台・・・規模が多少違うだけで他にも色々あるよ」
「そうなの・・・"すすきの"も、こんなに明るいの?」
「明るいね、朝まで、明るい」
「じゃぁ、パリは?」
「パリも一部分は明るいところがあったな」
「そうよね、パリって、昔から歓楽街を作ってきた街だものね」

 正直、彼女は新宿という街を特に好きだと思ったことなど、これまで一度もなかったのである。
 が、この日、彼女は今までになく、新宿の夜というものに魅力を感じた。
 というのも、ここは、絶対的に生き続ける街として君臨してきたのである。ここに生きる人たちは時代時代で変わり、また、営業する店の顔ぶれも時代と共に変化している。24時間、起きていて、ここで生きようとする人に不確かな夢を与え、また、他から来る者を拒みもしない。街全体の色というものが、万華鏡のように時によって臨機応変に変わる。変わるから続く。
 こじんまりしたスーパーで、たった数百円の買い物をするにも、「領収書、ください」という若い男。路地を斜めに小走りに駆け過ぎる緑色のスーツを着込んだ商売風の女・・・あの女、私より、少しは若いだろう・・・なんて、彼女は横目で見る。ジャニーズばりの呼びやの青年。そう、彼女から見れば、青年である。だから、彼女、雨の中に佇み、如何にも楽しそうに、「よかったら、どうですか?」、なんて冷やかす青年に微笑んで手を振るわ・・・「ありがと、bye...」って。

 雨なのである。
 が、少しも冷たくはない。
 この歌舞伎町というのは、不思議と角ごとに、ホテルがある。
「恋人たちとは、角を曲がるごとに、考えるものなのかもね」と、彼女は彼に囁いた。
「たまたま角に建つハメになったんだろう、ホテルが」と、彼は笑う。

 店の名は、アルプスという。
「あったあった、ここだ」
 ・・・歌舞伎町の西側まで来ているわ・・・だったら、駅も近いわね。
 アルプスなどというと、レトロな喫茶店のような名前だが、店内はかつてあったものを手軽に改装し無駄なく作られており、だが、チェーン店の居酒屋とはまた異なった構えだった。そして、何しろ、安い。どうやら普段はもっと混んでいたりするらしいが、この日は連休明けの火曜日ときていて、幸い、空いている。若い女性の三人連れ、中年のサラリーマンの三人連れ、学生風の男性の三人連れ、どうも、三人が多い。そして私たちの後から入ってきたのは、これはこの界隈で働いているとおぼしき女性の三人連れ、一人が二人と向かいあう状況で席についている様子を見れば一目瞭然、先輩と二人の後輩という関係だろう。女性たちは食べ物をポンポンと見繕って注文する。我ら(これを書いている私と男)とは大違いであるが、微笑ましい。
 彼と彼女は、"卵焼き"にするか“焼きウィンナー"にするか迷ったが、ウィンナーを選んだ・・・どうも、ドラマ『深夜食堂』を見ているせいか、そういう赤や黄色のものに気がそそられる・・・が、昭和世代は、この赤や黄色に染まった食べ物や飲み物が恋しいのである。
 ところが出て来たウィンナーは見事に現代的な物であり、全く赤く染まってなどいなかった。マスタードでいただく・・・ああ、ここは、『深夜食堂』では、ないのね、うふっ。
 家に二人で居る時は、いつも一緒にお酒を呑んでいる彼と彼女である。が、こうして、外に出ると、顔つきも変わる・・・それは特に、女の方だろう、が・・・。
 男は演奏活動で訪れる街々での話題などする。女は、面白がってそのエピソードを聞く・・・他人事のように、聞くのが、いいの・・・そう、あなたは私の恋人なのですけど、離れている時のあなたが何を見て、感じているか・・・私にはそれが興味深いの・・・。

 結局、彼と彼女は終電で帰宅した。
 有り難いことに座って最寄り駅まで過ごす事が出来た。

 新宿・・・そして歌舞伎町・・・。
 皆さんは、ここをどのように感じていらっしゃるか解らないが・・・

 整備され、一見美しく、今日的にあらゆる面において人好きのする開発を試みられた都会の街に比べると、ダーティーである東京の街。
 しかし、活き活きしている、雨の深夜でも、連休明けの不景気な21世紀の現代でも。

 若い恋人たち、または、若くはないとしても、"新しい"恋人たちが、夜を込めてデートする場所では、ないかもしれないわ。


 ですけどね、


 この男と女のように、もう、四半世紀も一緒に暮らす恋人たちにとっては、時に大人心を彷徨わせるには、塩梅の決して悪くはない街だったりしたのよ。


 だって、この二人には、ひとつのドアを開けて、戻る家がある。
 そうして、別々の時間を生きる術も、分かち合っている。


 翌朝は晴れていた。
 黒とピンクの二つのP・コートは、しばし太陽の下に干された。


 はしゃいだ彼女は、夕刻、熱を出した。
 明け方まで、眠れなかったからかもしれない。
 が、明け方まで眠れなかった理由は、はしゃいだ事が原因では、ないのだ。
 

 女は、今、彼女の持って産まれた本来の気質のみで生きている。
 24時間、女は、出来るだけ自分の感覚だけで生きている。
 

 翌々日の晩、26日は、下北沢で行われるライヴに行きたかった彼女。
 彼と大久保由希嬢のデュオだった。北海道に住まいを移してなお、東京でも活動している由希ちゃんに会いたかったのだが・・・。


「あなたは、今、弱っている。だから、今夜は止めておきなさい」


 という男の一言で、家で夢見るはめになった。


 とはいえ、"書を捨て、街に出る"ことは、嫌いではない。


 真人さん、ありがとう。


 あらっ、今宵も、こんな時間!


 i'm closer to the Golden dawn...


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 091124-4
 091124-5



 ..* Risa *¨