- 野戦19の秋 二つ三つのイーハトーブ物語『第二部 木偶ウーボの振り子』-

 

 さて長い間こちらをご無沙汰しておりましたが、<野戦19の秋/野戦之月テント芝居公演>が10月19日より国立市富士見台矢川上公園にて始まっております。今回のお芝居『木偶ウーボの振り子』では、テーマ曲の作曲をわたくしがさせていただきました。作詞は<野戦之月>の台本と演出をされる桜井大造(敬称略)、編曲は桜井芳樹、またわたくしはこの度も歌を歌わせていただいております。手前勝手に言わせていただくとこの楽曲、とても美しい仕上がりになった気がいたします。
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 そして先日の日曜日、公演を観に行ってまいりましたが、やはり桜井大造という人は期待を裏切らない、今度の物語も興味深くかつ、観る人々に思考させる喜びを与える作品でありました。「木偶ウーボ」のウーボとは、エスペラント語「街」を意味するそうです。その「ウーボ」とはどこに存在するのか…そこは何が為されている<場>であるのか、もう一つの世界であり、人々を包むお伽の国ようであり、時計の振り子の如くあちらとこちらを行き来する民人たちの暮らす逆さまになった世界なのか……。ここでわたくしがお芝居の内容を拾い綴っても無粋なので、せめてその時にわたくしの裡に浮かんだ振り子のような精神の声を覚え書きとしてここに置いておきましょう。

 人間の社会が純粋に変革されることとは、これまで民主主義と呼ばれてきたものに含まれてきた経済的な要素が無に還る必要があるのではないか、そうして、そのためには民主主義が<有った>とする必要がある、ここで証明された過去があるがゆえに革命という言葉が生き生きと掲げられるのだが、その革命とは風という目に見えないものが動きだすように行われるだろう。しかしその目に見えないものたちこそ、人々の精神の歴史を語り、動かしているものであった<はず>で、決してそれは文明の発達、例えば科学の進歩で人間の世界の幸福やゆとりが生じたわけではない、何故か、わたくしたちは相も変わらず太古の昔から今日に至るまで米や麦を食べ続けることはやめない。当然このことは、人間の生活というものがひっくりかえるはずがないように、止まらない過去からの記憶なのだろう。それは継続する。(このお芝居のチラシに一部書かれているように)、<針のない文字盤が電脳空間に設置されていて…>という謎かけにわたくしたちは問うだろう。それは逆さまな問いである、曰く、「AIにとって人類は満足に足る仕事をしているのだろうか?」、「傘にとって汚染された雨は喜びなのか?」、「新鮮な空気はマスクに有益なのか?」、「facebookのために人間はどのように在るべきか」…などなど、計り知れない文明の進歩が齎す変革すべき課題が街に世界に揺れている、わけだ。これが人間が作ってきた世界なのだろうが、時が流れればすぐに改革が求められる。これも人間の性なのかもしれないが、そこで思うのは、人間以外の動物の何と、品の良いことか。彼らには資本主義などという観念はないので、常に限られたものだけを必要とし神を自らの姿に似せようなどという発想は持たず、いや、彼らには神という存在など考えもしないし完全も不完全もなく、そこに生まれ、そこに道があり、そこに暮らす場所を自ら決めて過ごす。彼ら動物は歩く時、前を見、横や後方にも気を配り、危険がないかを確かめ進む。では近頃の人間はどうだろう? 道を、路地を歩きながら、スマホを見、脇から車が通りに出ようとしているのにも気がつかず、耳も塞がったまま自転車に乗り、後方から何が来ているかもさして気にはしないが時間には繫がれている、「今、何時」、「何時にどこへ行く」。その時間こそ、わたくしたちを唯一、奴隷とする目に見えないものであり、鎖であるのだろうが、わたくしたちは、長い歴史を歩むうちに、もはやこの時間以外の目に見えない鎖に繋がれた奴隷になりつつあるのではないか…という恐れが過ぎった令和元年の秋。

 さあ、今日10月22日は公演の楽日です。
 雨脚もいくらか和らいできたようです。
 皆さん、今夕はあなたのイーハトーブをポケットの中に入れて、お芝居に足を運んでみられてはいかがでしょう。

 

 野戦之月のホームページは以下です。

 https://yasennotsuki.org 

 
 桜井李早 ©