Dear Prudence


 慣れ親しんだ小さな街、Bourdeauxにて、ご機嫌なおじさまにおごっていただきながら朝から立ち飲み(pic:1:*)。因に紳士なColinちゃんは珈琲をオーダー(pic:2:*)。


 このカフェの女主人は小柄な人だが、テキパキと客たちと応対しながら早朝から夜更けまで店を切り盛りしている。小さな店だが、地元の人たちのみならず、観光客もひょっこり訪れる。彼女、朝は6時前に店を開け、客が引かなければ午前2時頃まで働く事も珍しくはない。
 2年程前からこのカフェにお世話になっているが、始めてこの女主人と話した時は、何か、彼女に魔女的な魅力を持った。私が彼女の手相を視たからだろうか? その時、それは初夏を待つ午後の日の事で、私は若干、私が東洋人である事を意識しながら彼女の小さな手を見つめながら、しかめっ面をしながら、彼女の手に浮かぶ線を読んだ。彼女は真剣な表情で私の言葉を解した(私はそれを伝える程のフランス語が語れないので、英語で語り、Colinがそれをフランス語に翻訳してくれたのだが)。
 実際、私は占いというものをそれほど気にかけて生きてはいない。人によっては、いかにも、私のような女は占いを信じていそうだと思われるところだが、私は案外、そういう意味ではいい加減に近く、まして、数年前からあたかも無神論として在り、年の初めに興味本位に占いサイトなど覗いてはみるが、「ホー…」と、フクロウのごとく。そして、後は身に任せる。が、その日、私は彼女に決していい加減な事は言わなかった事だけは記憶している。それは、もしも、人がそれを信じるならば…私は良い事しか言わない…それはその人の人生に希望的な力を添える枝となるからだ。
 世を生きるうえで、人が、必要な栄養を望んでいる"場合"において、時に、他者からのそのような働きかけが、思わぬ救いとなることは理解できる範疇にある。私が占い師である時、私は補給者になろうとする。
 私がその手に、触れ、念じたとき、私の相手に私の『こころ』が伝わりますように。
 そうして、私はこの女主人の生き様を想いながら、ちょっと憧れを感じたりする。
 …女ひとり、いつも、そこに、立つ…そうよ、そういう事よ…


 彼女は私に言った。
「あなたは相変わらず痩せているのね。でも元気そう。あなたは引き続き、書いているの?
「ええ、書いているわ。でも、まだ終わらないの」


 この小さな街、Bourdeauxには図書館があり、この図書館を囲む場所でマーケットが開かれる時、図書館が廃棄する予定の書籍たちを安価で売るのだが、私は昨年、そのマーケットにおいて、南部アメリカの女性作家、カーソン・マッカラーズの著した英語版の本を1ユーロで購入したが、このBourdeauxのカフェの女主人は、何か、そのマッカラーズの小説の中に現れるような女像を私に想像させてしかたがない。


 南のフランス…様々な光景を人々はイメージするにちがいない。
 日差し…例えばゴッホが描いた日差し… 
 或は、マッカラーズが著した南のアメリカ…
 それから、何だろう…確かに、豊かな人々が南のフランスを訪れ、南のアメリカを訪れ、太陽を満喫するだろう。
 しかし、そのような観光的な魅力ばかりが、南という"場所"にあるわけではない。


 南の魅力とは、どこか世離れした倦怠や、港があればそれが運び込む混沌、そして、放浪者を誘い込み、それらが引き起こす危険や、所謂、"いい加減"が運ぶ日雇い的な歓喜に溢れた土地だという事を忘れてはならない。興味深いが、常に自らがなければ溺れる場所。


 そして南という土地柄が言わせる、言葉。


 それはまるで、Beatle-Johnが歌った歌のように…
 それはインドの地ではあったが…


 Dear Prudence open up your eyes…see the sunny sky……


 そうね、Lennonはちょっぴり、女の子のようなところがあったわね…うふっ…


















http://www.youtube.com/watch?v=M-2lMstw6qs






 Risa :*)