七色の音楽風景

 世界にも、或いは、人の心にも、聖と俗、光と闇がある。
「いいえ、私は神聖であり、闇など持ち合わせておりません」、と言う人も中にはいるかもしれないが、聖や光ばかりが貴いとも言い難く、また、俗や闇が、必ずしも悪であるとは限らない。
 世には、両者が行き交っているのである・・・そこに溝を作ることは、私のような者にとっては、「ナイーヴが愚か事である」と、諦めがちに断言せざるを得ない・・・これは、儚い、嘆きではあるが。

 その私の苛立を、聖者のように明かしてくれるかのごとく素晴しい音楽と、7月16日、私は再び向かい合った。
『トリプル・ペダルスティールによる「七色の音楽風景」』、長いキャリア、そして美しい音色で人々を魅了してきたペダル・スティール奏者、駒沢裕城氏が1992年に発表したアルバム『Feliz』の再発を記念したライヴである。
 共演者は田村玄一/ペダル・スティール、尾崎博志/ペダル・スティール、東谷健司=ダニエル・東谷/ベース、夏秋文尚/ドラムス&パーカッション(敬称は略させていただきます)。
 始まりは、駒沢さんのソロ、「トッカータ」。二曲目の「アダージョ」から玄一さんが参加・・・と、一部は一曲ごとに演奏者が増える。三曲目の「流れの中に」を聴いて、ドビュッシーの「夢」を思い浮かべた私だった。「小さな手」は子供さんへの愛おしい心を、父親としての駒沢さんが綴った素敵な物語詩。「Palm Wine」は、ヤシ酒のことだが、ちょっと冒険的か・・・そういえば、我が家の書棚には、エイモス・チェツオーラというアフリカの作家の書いた『ヤシ酒のみ』という本がある。
 二部は「オルヴォアール」、「飛翔」、「フェリース」という順で、出演者全員によるアルバム『Feliz』からの選曲である。絵巻物のように繰り広げられる見事なコラボレーションは、時の経つことを忘れさせた。どれもサイズが短いように聴こえたが、時・・・音楽とは、一種の時間芸術であることは言うまでもないが、私はこの晩、時の経過を甘く、柔らかく、しかし、胸の裡に天然的(私の天然である)熱狂を感じながら鑑賞した。ここでの「飛翔」は、やや解りやすく言わせていただくと、"プログレッシヴ・ロック"を懐かしみたくなるような編曲の雰囲気もあり・・・(しかし、どうだろう? この21世紀の現代、"プログレ"という音楽ジャンルを言葉にして何になるか、と感じている私であるが・・・というのも、それが'70年代だったからこそ、そのネーミングが生きたかもしれないが、それは、もはや、30年も前の事なのである。それを21世紀の今でもかつての名前通り"プログレ"とジャンル付けすることに私は少なからず虚しさを感じる。何故なら西洋では、日本で言う"クラシック音楽"をそのよう名前で形容しないのである。この"クラシック"と今、欧米で形容されている音楽ジャンルとは、実に'50年代から'60年代、'70年代の音楽を意味しているのである。つまり、ビートルズストーンズの昔、ディランの昔・・・その辺りの時代の音楽・・・等々を呼ぶのだが・・・)。
 お話は逸れたが、私はこの「飛翔」に古を観たわけでは無い。
 むしろ、駒沢さんの楽曲の力とこの日のために想像されたアレンジのおかげで、賢く、美しく、空を舞うような「飛翔」という楽曲のチャームが、より軽快にかつ、地上的なものに聴こえたのである。夏秋君の演奏は、そういう意味で素敵に生きている。彼の、天使のような演奏は、細かい所作を非常に軽やかに示してみせる、彼は、いつも最高だ。
 プログラム最後の曲、「フェリース」、ここでは、ダニエルこと東谷さんのベースが映える。ベース・ラインは王道を行くバロック以降の進行が目立ったが、ダニエルの上品で繊細な響きは心地よく、また、この楽曲全体のイメージは、非常に、非常に、ヘンデル的であるゆえ、より一層その荘厳さが引き立つ。思うに、駒沢さんにはヘンデル的な美学があり、昨年秋、玄一さんとのデュオをされた時にも感じたのだが、駒沢氏の持つ古典への大きな敬意と美学に、私はひどく感服させられるのである。ヘンデルは、ドイツ生まれの大作曲家であるが、英国に帰化した人である。

 ここで古典と書いたが、先程の日本のクラシック音楽のジャンル内の古典以上に遡るルネサンスの魅力で、アンコールを〆られた駒沢さんであった。
 アンコール最後の曲、「今こそは別れねば」・・・原題「Now, O Now, I Needs Must Part」、これは、英国の16世紀から17世紀の初頭を生きた作曲家であり、リュート奏者であったジョン・ダウランドの作品であるが、うっとりした・・・。このジョン・ダウランドのことは、『YES』という私の著書の中でも少し触れているが、栗コーダーカルテットも演奏している。ちょっと、ダウランドの時代のこと、お話させてくださいな・・・

 ダウランドカソリック教徒であり、ヘンリー八世によって英国国教会となったその国で仕事をすることが難しくなり、英国を離れ、西洋の大陸で活動した時期があった。この時代、中世の後期、西洋ではメランコリーの傾向があり、それは、宮廷でも庶民の間でも蔓延した思想であった。そこには、苦悩や失意、或いは憂鬱という闇の世界の想像がはたらくのであるが、このメランコリーには、必ずしも否定的な精神が込められているとは限らなかった。それは、大いなる、<憂い>或は、<愁い>なのである。人々は、富んでいる者も貧しき者も、そのメランコリーにより、想像力を発揮した・・・これは、諦めの美学であり、諦めから始まる向上心であった。ペスト、争い・・・庶民においては様々な生活の困難があり、貴族にとっては倦怠が運ぶ<もの憂い暮らし>による鬱憤があったのである。自由を求めたくとも、それを声だかに叫ぶ事もできない日常の暗澹たる時間の中で、その時代を生きた人々に根ざしたものは、メランコリーという密室的な世界から育つ淡い灯りだった・・・・・・灯り・・・それは、言葉(詩)であり、声であり、メロディーであり・・・それを奏でる吟遊詩人があって・・・そうよ、人々は起こる物語に耳を傾けるわ・・・餓えた者も、きらびやかな者も、ガメツい者も、ひと皮剥けば皆、同じ人間・・・彼らはうわさ話を聴く様に神妙になってみたり、恋の予感に胸を高まらせたり、心配事や不幸を忘れようとするあらゆる空想的な事(琴線)に傾倒した。確かに、教会の唱える事は神聖であるが、人の生きる場所には何が起こるか解らない・・・解らない事、これ、即ち、俗であり、闇だったわけである。
 そういう世を生きた音楽家ダウランドであり、彼は多くの歌曲、リュート曲を残した。物語詩として作られたダウランドの楽曲は、今も愛され続けている。光・・・を、与えた人であろう。
 駒沢さんがこの晩演奏された「Now, O Now, I Needs Must Part」は、これは歌曲である。歌詞は古い英語で記されたこのようなもの・・・


 now, o now, i needs must part
 parting though i absent mourn.
 absent can no joy impart:
 joy once fled cannot return.
 while i lives not when hope is gone.
 now at last despair doth prove,
 love divided loveth none.

 sad despair doth drive me hence,
 this despair unkindness sends,
 if that parting be offence,
 it is she which then offends.

 dear, when i am from thee gone,
 gone are all my joys at once.
 i loved thee and thee alone,
 in whose love i joyed once.

 and although your sight i leave,
 sight wherein my joys do lie,
 till that death do sense bereave,
 never shall affection die.

 sad despair doth drive me hence,
 this despair unkindness sends.
 if that parting be offence,
 it is she which then offends.

 dear, if do not return,
 love and i shall die together.
 for my absence never mourn,
 whom you might have joyed ever:
 part we must though now i die,
 die i do to part with you.
 him despair doth cause to lie,
 who both liv'd and dieth true.

 sad despair doth drive me hence,
 this despair unkindness sends.
 if that parting be offence,
 it is she which then offends.


「希望がなくなった時、私はあなたのもとを去る」と詩人は物語っているが、この希望と絶望を、それがうたかたの愛であろうと何であろうと、憂う価値のある事柄であり、人生の喜びと悲哀の闇の美を謳う詩人である。

 ダウランドは宮廷の寵児たる願いも叶うが、それ以前に、世俗の人であった。

 聖と俗、光と闇・・・。

 ・・・私は、あの夜、奏でる駒沢さんの少しだけ薄くなった脳天をこっそり見つめながら、何か、気高い修道僧の語りべをうっとりしながら聴き入っている気持ちになっていた。
 それは、例えば、ベネディクト会修道士の謎に満ちた物語である。
 ええ、あの中世において、ベネディクト会修道士の中には、秘かに世俗の世界を物語にしていた者たちがあったの・・・彼らは、庶民の生活と愛、そして世界観に根ざした物語を枕元の灯りで秘密裏に綴ったのである。それらは、修道僧が死した後などに発見されたり、編集されたりしたものだが、それらに見る完璧な人間の生への憧れと試練を空想的に描いた作品は、神話的に見落とす事のできないものが数々存在するのよ・・・それらは、人間愛の奥底を歴史的、或いは、エロスを交えた伝説として、21世紀でも、どこかで読む事ができるかもしれなくてね・・・。

 私は、イスタンブールの下賎な踊り子のごとく、マンダラ2の奥にて、微笑しながら昂揚を押さえていた・・・いいえ、本当は、踊りたくてムズムズしていたのよ・・・七色の音色風景・・・私が遣って来たことは、七つの罪かもしれない・・・しかし、それもやがて、幾つかの物語となって解き放たれる時がくるかもしれないじゃない・・・。

 共演者の皆さんは全て景色のある音を聴く人に与えてくださった。
 玄一さんは、この晩のステージにおいて、かなりの労をされたような気がする。それぞれの楽曲の中で担当される役割は多彩であり、また、実に技術も要する必要があり、何よりも、最も駒沢さんの周囲において、深く寄り添い、分かち合うお立場だったことと感じる。
 そういう意味で、精神をたっぷり音楽に傾けながらも、ご自身のスタイルを悉く理想的にご披露なさっていた田村玄一さんは、ステキだった。愛すべき玄一さんのご活躍は、いつも身近で鑑賞させていただいている私だが、氏が駒沢さんと演奏される時は、普段とちょっと異なる。その異なりが、私をワクワクさせてくれるのだが、この後は、玄一さん個人の選曲によるマジックを更に拝見する機会が増えそうである。

 そうして、忘れ難いのは、尾崎博志氏の若さと落ち着いた姿勢から醸される凛とした音であった。正直で、飾らず、骨太な印象は、3台のペダル・スティールの醍醐味=3人の騎士たちのうちにあって、栄養の行き届いた若武者のような鋭さを実感させていただいた。
 
 遍歴すべきである、人は・・・

 と、そんなことをおもむろに確かめさせられた7月16日の夜。
 この晩は、あがた森魚さんもお忙しいなか、吉祥寺にお出でになられた。氏はご自身のお仕事のため、一部途中でお帰りになられたが、相変わらず、爽快なお顔で登場された。
 ・・・眼鏡の奥の大きな瞳は、クールだった・・・そう、錬金術師の目つき・・・ここに立ち寄り、次のご自身の場に向けての醒めたあがたさんの目であった。
 氏も、聖と俗、光と闇の世界をご存知の方である。


 終演後、案外私は飲んでしまったかもしれない。
 中央線、西武線と、のんびり経由しながら帰宅したチェリーと李早である。
 帰宅後のチェリーは、居間の床にダウンする事無く、目出たし目出たし。


   *

 さて、少し先のお話になりますが、ライヴのお知らせです。
 
 下北沢leteにて、桜井芳樹+桜井李早という組み合わせで、9月10日、演奏させていただくこととなりました。
 5月23日の"Going a-Maying"以来の歌う現場となりますが、お時間のある方、よろしかったら、是非、足をお運びくださいませ。
 何だか、今日は・・・"Broken English"・・・な気分だけど、はて、マリアンヌ嬢。


 近頃、慌ただしい気分だったのだが、今日、7月19日は、久しぶりに我が家の小さな庭の手入れをした。この家の庭師は私なのであるが、珍しく、今日はチェリー氏大活躍。それというのも、伸びて伸びて仕方が無いオリーヴの樹の枝を少し切り落とす必要があり、ノコギリ手にした男手というのも、欲しかったのである。午後から夕刻まで、せっせと植物たちと向かい合う。こういう時、人間は、無心になり、ひたすら作業をする。分担作業も効率的であり、時間が経つ事も忘れててきぱきと躯を動かす。薔薇だけだったら、私ひとりで十分だが、「生命の樹」とさえ呼ばれつづけてきたような樹木を相手だと、人間の腕の力など、あっさり笑って撥ね除けられるような気さえした。そう、オリーヴは、その腕の一本や二本を失っても、笑っているのである。
「ああ、そこ、ちょうど、伸び過ぎて厄介だったんだな・・・切り落としてくれて、さっぱりした!」「切り落としてくれたこの枝だけど、私はまだまだ、緑のまま!」と、葉っぱが言う。
 おかげで、いっさいの庭仕事が終了したら、ふたりとも少し眠りたくなったくらいだったが・・・
 ・・・汗、かいたのよね。で、ビールが美味しい事!

 精神の贅沢とは、時を忘れる場所において起こり、その時こそ、醒めていて、その後こそ、夢なのだろう。

 修道女風に・・・神よ、私を良き道に導いてください。そして、今宵の私に、安き深き眠りを、与えたもう・・・なんて言いながらも、ああ・・・i am closer to the golden dawn・・・


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 『YES』桜井李早:著/MARU書房

 著書『YES』の通販のお知らせです。
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 ..* Risa *¨