冒険家 / そこに山があるから登る

 昨日、ポーランドの女性Painterから届いたクリスマス・カードの封からは、ほんのりと東欧の土の香りがしたような気がする。
 雪の混じった、冬の土の匂いだ。
 そうして、手書きのアルファベット文字が妙にうねうねとしていて、艶かしい。それは決して"上手い字"と感じるものではないが、そのアルファベットから伝わってくる西洋の感触は、熱い。

 ここ東京はまだ雪は降らないが、北の方ではもう随分降っている。
 先週あたりは随分寒かった東京にいて私がふと思い出したのは、少女の頃、頻繁に遊んだスキー場の記憶だ。
 週末の早朝、暗いうちに家を出て車で苗場や湯沢に向かった。このことは以前も綴ったことがあるが・・・・・・そう、快晴のスキー場というのは、素晴しい! 
 しかし、時には雪国が近づくにつれ、天候が変化していく様を見ながら到着したこともあった。
 現地に着けば、吹雪いていたりする。
 が、父はその吹雪の中を滑ろうと言う。勿論、普段よりも早くスキー場を後にする結果となるが、ここへ来た以上、滑ろう、と家族に言う。
 私が感じた吹雪はしかし、本当の恐ろしい顔で私たちに襲ってきているわけではないのかもしれない。ただ少しいつもより厳しい顔で雪を風とともに降らせているだけで、この土地に暮らす人たちにとっては当然の冬の顔かもしれない。
 だが、リフトに乗り、自分の顔を背けながら登って行く状況は正直愉しいとは言えず、そして登った場所から滑り降りることも、とても愉しいとは思えないのだ。何しろ、顔面に吹き付ける雪の冷たさと言ったら、"敵"と呼びたい物体だ。こんなものを美しいといって愛でてる場合ではないだろう、雪よ! と、歯をくいしばってゲレンデを滑り降りるのだ。視界は悪く、純白のゲレンデは瞬時にアイス・バーンになって行くので慎重になる。睫毛など、凍る。躯はゲレンデを滑り降りる程度の時間で冷えるという感覚はないが、外気に直面している顔面は、実に、鞭で打たれているように、痛い。グラスにはすぐに雪が付着するので擦りながら・・・ストックなんて、要らないわ・・・!
 そのように、普段だったらロマンティックに思える雪も、場合によっては容赦しない自然の顔で人々を迎える。
 そんな私だから、ここにいても、冬に、空模様を見ると、「ああ、今日あたりはスキー場は吹雪いているだろう・・・」なんて、想像できる時がある。


 片山右京氏の報道を耳にしていて、私は最近、不愉快な思いをすることがある。
 右京氏は名レーサーだった。その氏が、新たな冒険の道を選び、人生を過ごそうとしている。相手は自然だ。しかも、12月の富士山。訓練のため登場した富士山で遭難しかけ、一緒に登場したふたりの人たちの命は堕ちた。
 その右京氏に対して非難するような報道陣の在り方を感じるのは私だけだろうか?
 ひとり生き残った右京氏を、どうやら、十字に架けたがっているフシを見受けると、吐き気がする。
 勿論、遭難されたふたりの方々の命は大切であり、悲しい。
 が、非常時において、どう在るべきか。
 そして、冬山に登るという行為がどれだけ命がけかということは、体験者なら理解しているはずであり、悪天候に遭遇した時、どれだけ隣人のために動けるかということは、平な世の中にいる者には解らないかも知れない。
 私など、スキー場の吹雪に遭遇しただけだが、その時、一緒に滑っている母の姿を見失うまい、と、思っていた・・・母も同様で、どちらかが先に降りれば、どこかの地点で待っている・・・見守る・・・そうして、お互いが同じ地点になった時、またふたたび、スキーを滑らせた。
 そうやって、冷たい自然の中に在る時、人間は隣人のことをいつも気遣いながら歩くものなの・・・その仲間の存在を見失わないように最善の注意を向けているはずなの・・・それでも・・・
 助けられない時が、ある。
 誰かが事故を報告しなければ、どうしようもない。
 何もここで貴重な、生きる可能性を残した命をわざわざもうひとつ無駄にすることはないのだ。 
 どんな命も大切だ、と、教えるなら、救われる見込みのある命は、救われなければいけないのだ。
 
 それを否定する者は、心中を奨励しているようなものではないか。
 氏が仲間を救いたかったことくらい、誰でも想像できるだろう!

 自ら冒険家と名乗ることにした以上、何が起こっても後悔しないことを信条にされたはずである。
 冒険家というと、如何にも、ロマンティストな物言いだが、命がけ、或いは、命を投げ出し、破滅を覚悟するという、言わば、非情がそこには存在するのだ。
 冒険家をなめるな!
 冒険家とは、仮に誰をも救う事ができなくても、涙を流す事が許されないライセンスなのである。

「何故、エベレストに登るのか?」 という質問に対して、

「そこに山があるから登る」

 と発言したのは、英国の探検家、ジョージ・マロリーだったが、その、「何故・・・」という馬鹿げた質問は、20世紀初頭も、21世紀初頭の今日でも、変わらないことが、寂しい。

 生きた右京氏に、よかった、と言いたい。
 
 壮大な冒険など、おいそれと、誰もが願う事も、叶える事もできないかもしれないが、人生、安全ばかり考えていても、面白くはない。

 私は、ミュージシャンなる男と結婚した。
 生活の安定など、期待したことは、ない。
 上手くいけば、ラッキーさ、そうでなければ、地獄さ。
 そう思いながら、今日までその男と暮らしている。
 それは、平安な道ではないが、冬山の一夜よりも、よほど安楽だろう。

 そう、思えば、まだまだ、馬鹿ができそうだ。

 「破滅して、何が悪い?」

 と、発言したのは、フランスの作家、フランソワーズ・サガンであるが、彼女の快楽主義は、あのロマンスを産んだ。
 そのフランスも、雪が降っているらしい。


 少し、柔軟になろうでは、ないか。

 誰にも迷惑も、心配もかけず、生きていくことは、冒険よりも、難しい、と。

 そのように考えなければ、人生とは、単なる、受難に、なりかねない。


 生きてこそ、あれ。


  ..* Risa *¨