夏の朝

 今、早朝の空、及び、地上の輝きがまばゆく、何しろ、美しい。
 この朝は、誰の力も借りずに訪れる。
 風は静止に近く、樹の葉一枚、微動だにせず、蝉の声、そしてこの私の居る部屋の中は限りなく柔和な光に満ち溢れ、しかも私は眠れない。

 昨夜、可笑しな時刻に胃が痛んだおかげで仮眠した。
 だから、もう、今日は眠らずとも大丈夫だろう。
 眠くなったら、寝てあげよう。

 午前6時が近い頃、あれが自分だったのかしらといぶかしくなるような自転車を走らせる早朝の少女の影を視た。
 小学校の4年の夏休み。
 パッパと弟、そしてRisa...自転車に乗って朝の空気の中を通り過ぎて行く。
 
 どうして夏休みの朝というのは、毎日晴れているのだろう?

 と、不思議に思いながら。
 
 いいえ、時には雨模様の朝もあったはずなのだが、どうしても、何故だか、そんな朝の記憶を掘り起こすことができない、今の私である。

 そう、子供たちの夏休みというのは、毎日晴れていると決まっているのだ。
 大人になって、雨降りの日など、思い出さなくていいように、設定されている。
 気が利いた思い出とは、そのようなものだ。
 何でもかんでも、自分の都合の良いように現れ、それは消えず、残される。

 ...ああ、朝日がまぶしくてね、コンピューターの画面が逆行になってきたな...

 ...自転車は2台。父と私と。弟は父の後ろに乗っている。
 神社の中を通り抜け、小さな堀だからだろうか...ささっぽり...と界隈で呼ばれている堀を縫うように進み、静かな住宅地が少しずつ目覚めていく音を耳にしながら雑木林と隣接しているもうひとつの神社の脇を過ぎて行く。
 私は前を行く父の後ろについて行くだけなのだ。
 そうして弟は父の背中の後ろから時々振り返っては、私に微笑む。
 ...ここにいるよ...と、私は弟の顔に向かって頷きながら笑い返すのだが、あの小さな少年が振り返る理由は、私を案じてというより、3人がまとまって走っていることを幼心に確認したかったのだろう。

 言っておくが、それが晴れた朝とはいえ、この時刻、必ずしも空の色が青いとは、限らない。
 それは、太陽が黄色いからだろう。
 朝の空は、乳白色であり、太陽は自分の周りのそのミルク色を蹴散らすように高くあがり、目を眩ます強烈な光を反射させながら世界を起こす。
 実にゆっくり流れる時であるが、あの頃、私は、「これも過去となっていつの日か懐かしむことになる瞬間なのだろうな」と、切なくもなったものである。

 その、当時の切なさのようなものを逆に今、悠々と懐かしみながら、私は今、再び、あの小学生の夏の朝に立ち寄っている。
 もしもほんの少し前に、無理矢理ベッドに潜り込んだら、この立ち寄りは、無い。
 だから、いいんだよ、眠らなくても。
 目覚めていたいときは、たったひとりでも、目覚めていればいいんだよ。
 
 今朝は、あの'70年代の朝の空気に似ている我が家の界隈の空気なのである。
 もったいないじゃないか。
 そんなことを一年のうちで何度感じられるか...そして、

 そしてぶらっと自転車で心も身体も覚醒させた親子3人は、母の準備した朝食の席へと引き返すのだが、気まぐれな私は、永谷園のお茶漬けなどで朝ご飯を済ませたりする。
 そして呑気にも、こんなことを想うのである...

 ......皆、私を放っておいてくれないかしら...10時になったら、『花のピュンピュン丸』なんか、観たいんだけど...TVに飽きたら、本読むわ...誰が宿題の感想文のためになんか、読むもんですか! ...私は自分の愉しみのためにしか、読みません...しかも、課題図書で感想文を書くのなんて、厭。好きにさせてください...だって、今は、夏休みでしょう? ...私にはテーマも課題も要らない...だって私はね、『自由』について、今、研究中なのですから......

 そういう、子供である...あった。

 その夏は、『八月がくるたびに』、などという本が課題にあげられていた頃だったかもしれない。
 私は当時、その書物の内容を決しておろそかに考えていたわけではなかった。
 が、それを、課題とされる夏が、正直、好ましいと思えなかったのである。

 ...何も、夏だけでなくても、いいのではないかしら...

 私は子供時代から、記念、という文字に少しの反発のようなものを感じたがる、悪い癖があったのだ。


 ああ、もはや、眠れないね、太陽が明るすぎる。


 生き物とは、暗くしてやれば自然と眠ることができるようだが、こう明るくなってしまうと、もう、駄目である。


 さて、良い天気。


 洗濯でも、始めようか。


 自転車こぎは、無し、だが。




 おはよう、おはよう。




 おでこが暑いな。



 Peace & Love