フランスにて / 3月17日



 3月17日の早朝、予測が難しい電車の状況をチェックしながら成田へ向かった。ターミナル内にはたくさんの中国人が床に寝そべっていて日本から脱出する機会を待っていた。そんな中、ちょっとした雑用をしなければならなかった私はそれらを速やかに済ませ、カウンターに向かってみれば、チェック・インまでまだ十分な時間がある時刻にもかかわらず、すでにかなりの人々が並んでいる。日本人はもちろんだがフランス人が目立つ。そう、フランスは今回の日本の地震の状態を知って即刻日本に滞在中のフランス人に帰国するよう指示したのだ。臨時の飛行機まで準備し、フランスはフランス人を日本から離れるよう手配した。
 チェックイン後、私はビールを一杯飲みながらフライトを待った、3月17日は聖パトリックの日、そういう理由を自分に都合したのである。しかしそのフライト、実に若干遅れるとの事、しかも、飛び立ってから一度、飛行機はインチョンで燃料を補給しなければならないとの情報だった。航空機はパリまでの直行便だったが、そのような事情のためにパリに到着するのは現地時間の21時過ぎになることとなった。再びここで厄介なのは、私は17日の夜の間にリヨンまで行く予定だったのだが、それが確実に不可能になったことである。リヨン行きのTGVを予約していたがそれは最終電車、それに乗れないとなると、私はパリで一夜過ごす必要がある。私は南仏にいるコリンに連絡して私が明日の朝でなければリヨンに着けないことを伝えた。彼は、では明日の朝に、と言った。彼が車でリヨンまで私を迎えに来てくれることになっているのだ。

 ...インチョンでは機内で2~3時間待ったのだろうか? 隣席のご夫人と親しくなり、機内に用意されたサンドウィッチを食べながら今回の地震のことを話していた。夫人はご主人と一緒にフランス&イタリーのツアーにこの度参加したという。ご主人のお仕事の引退を祝しての海外旅行である。それはこのご夫婦にとっての記念でもある機会なのである。夫人はこのような時に自分たちが海外旅行に行くことを少し後ろめたく思いながらも参加する事を諦めなかったと私に話した。彼女には素晴らしい家族があって、息子さんや娘さんのことなども私に語って聞かせてくれる。一人渡航の私には、夫人の話す事が暖かな様子で伝わってきて、そう、何というのかしら...年配の女性の強さと柔らかさに安堵させられたような心地だった。

 ド・ゴール空港に到着した21時過ぎ、私にとってもはや今宵は自由なのである。明日の朝のTGVを改めて予約すること以外は。
 飛行機の遅れにともなって旅行会社がホテルを予約してくれたというツアー参加のご夫婦と別れて私はスーツケースをゴロゴロ転がしながら空港と隣接するTGV駅まで歩いた。もはや電車の無い駅に向かう人は少なく、駅内にいる人もまばらである。駅が動き出すまであと8時間はある。さて、如何に過ごそう?
 さしあたり本もバッグにあるし携帯、コンピューターもある。退屈はしないだろうと思っていると一人の風変わりな東洋の顔の女性に出逢った。彼女の荷物は決して大きくはないバッグだけ、ポツンと腰を降ろしている。冠に似た帽子をかぶり、身なりが悪くないが何かが少しおかしい。彼女は流暢に日本語を話すが、自分はフランス人だと言う。或る事情があって日本に行かなければならないが、飛行機に乗れないのだと言う。彼女はその"或る事情"というのも私に説明してくれたのだが、まことに奇怪な話なので私はだんだん疲れてきた。おまけに彼女は自分のことを7歳だと言う。私はあなたはどう見ても7歳には見えない、あなたは成人した女性ですよ、と言うと、いいえ、私の年齢はは7歳か8歳だと言われた、そして妊娠している、と言う。一般的に7歳の女性は妊娠しませんよ、と言ってあげると、彼女はヨーロッパ人は7歳で妊娠すると応える。...参ったな...まさか私にお金でも寄付してもらおうと思っているのだろうか? が、そうでもない、それならもっと端的な行動をとるだろうに...しかしながら一晩この狂った人生劇場のお姫様と過ごすのは忍耐がいる...私はトイレに行きながら彼女を残して少し歩いた、勿論、スーツケースを転がして。
 駅内は珈琲などの飲み物とアイスクリームの自動販売機以外は全て閉まっている。そしてトイレも同様、鍵が下ろされている。困った...と思っていると、親切な職員が私をスタッフ専用のトイレへ案内してくれた。おまけに彼は私に珈琲までおごってくれた。ほっとしながらもまたあのお姫様と過ごす気分にもなれないが、比較的安全そうである彼女のいる場所に戻った。戻ってまたへんてこりんな話を少ししていると、「24 hours?」という声が私の背後から聞こえた。「yes」と私が返事をして振り向くと若い女性が立っていた。短めのボブにカットされた黒髪、ややボーイッシュだが服装も可愛らしく、彼女はほとんど日本人に見えるが彼女は台湾人だと言う。私たちはすぐに意気投合した。彼女は自分も明日の始発でリヨンまで行く、そしてグルノーブルに住むボーイフレンドが迎えに来てくれる、合流したら私と彼はしばらく素敵な時間を過ごすのよ! と活き活きした表情で言う。彼女と私はコンピューターを開け、しばらくインターネットをしていたが、彼女が「『ブラック・スワン』を知っている?」と私に尋ねる。一人のバレエダンサーの映画である。私が知っていると応えると、彼女は一緒に観よう、と言って、彼女のTOSHIBAのコンピューターを私も見える向きに置いた。画面下には台湾の言葉で字幕が出る、が、私にはそれらを全て解釈する事はできない、私たちは似た東洋の顔をしながら英語で話合っている、私の目は時々字幕を見るが、私の耳は映画の中の英語を辿っている方が解りやすく感じられる、彼女は映画を観ながら時々ストレッチをしている、映画が終わり、「悲しい話よね」と彼女が言う、「そうね」と言いながら私は思春期までクラシック・バレエを習っていた、と彼女に言った、すると彼女は私はバレエが好きだ、でも台湾ではそれを習う人は少ないと言った、そして彼女は少し英国で過ごしたことがあると言った。
 ところであの日本に行くというフランスのお姫様は私たちと一緒に映画を見ず、時にどこかを歩いては座り、それを繰り返している。映画一本を見終えても、時刻はせいぜい午前3時、先は長い。私は機内でフリーだったサンドウィッチを夜明かしに備えて3つばかりいただいてきていたのだが、珈琲を飲みながらそのひとつを台湾のお嬢さんにあげた。そしておかしなお姫様にも「食べない?」と声をかけたのだが、お姫様は「けっこうです」と日本語で丁寧に応えた。台湾のお嬢さんと私はトイレを求めてしばし歩く。駅にあるシェラトン・ホテルのドアにも鍵がかけられている...24時間じゃないのね...しかしもう一度ホテルの前に立ってみると夜勤の掃除の人が見えた。私たちはガラスをノックして彼に合図した。黒人のホテルマンは私たちに気づくとドアを開け、トイレのドアの鍵も開けてくれた。一安心して、さあ、再び夜が開けるまでもうしばらく過ごさねば...私たちはまた腰を降ろしてコンピュータを見たりおしゃべりをしていたのだが、ふと彼女は自分のTGVのチケットを私に見せた。そして私はちょっと驚いた、その値段に、である。何と私のチケットの3分の1の値段なのだ。「あなたはこのチケットを何処で買ったの? 台湾で?」と私が尋ねると、そうだ、と言う。私は自分のチケットを彼女に見せた、彼女も驚いた。私は「ああ、私はあなたのチケットの値段を知りたくなかった」と言って笑った。
 その間、近寄ってくる足を引きずったジャンキーは私たちに「煙草を持っていないか?」と二度、同じ質問をする。もうひとり、やはりジャンキーと思われる男も始終ぶらぶらしている、彼は何度も私たちの背後2メートルくらいの所で立ち止まるのである。両者とも曖昧な目つきだが暴力とは無縁に見えた、そんな体力を恐らく持ち合わせていないだろう...

 漸く駅に人気を感じる時刻になった。ゲートの開けられる準備が整い始めたが、外は暗い。駅のトイレの鍵もシェラトンのドアも開けられた。台湾のお嬢さんと私は6時54分発の6番線の電車の到着を待った。奇遇にも彼女と私は同じ車両でしかもシートも近かった。電車は定時にシャルル・ド・ゴール駅に到着し私たちは2階席に落ち着いた。私のシートは窓際、明けていくフランスの空と大地を眺めながらやっと夢から醒めたような気がしたが、私は実際、一睡もしていない。8時が近づいても朝の空は雲っている。ひとつ街を通り越せばすぐに田舎風の景色がしばらく続く。TGVの中は時間帯のせいもあるだろうが何となくがらんとしていて、また私が一等のシートを選んではいないせいかもしれないが日本の新幹線の方が明るく感じられた。ただ、私はこの風景に馴染んでいた。見える木々に、どんよりした朝の空に、草の蔓延る土地に、誰かが歩いた後に漂う様々な香水の匂いに。

 およそ2時間後、私はリヨンに着いた。台湾のお嬢さんのボーイフレンドはもう駅に来ていて、彼らはさっそく一緒にグルノーブルに向かった。別れ際に私たちは名前を交換し合った。ボーイフレンドはたぶん、学生だろう。裕福な台湾の家に育ち留学しているのだろう、そして彼女もやはり豊かに賢く育ったのだろう。彼女は「あなたの待ち合わせの相手はどこにいるの?」と私に尋ねる。コリンの姿は見えない、私は彼に電話をした。すると台湾の彼女は横から「早く迎えに来るように言いなさい!」と私に叫ぶ。コリンは朝の交通渋滞にひっかかったらしい。私はしばし待った。そしてもう一度彼に電話をすると、「もう僕は駅にいる、君はどこにいる?」と彼が訊く。「私は"PAUL"の近くにいるわよ、早く探して」と言った。「"PAUL"? 僕には"PAUL"が見えない」と、彼。「そう、"PAUL"よ、甘い物が並んでいるお店、あなたはそれが見えないの?」「僕には赤い"Virgin"が見える」「ええ、私の近くに"Virgin"がある。私は"PAUL"と"Virgin"の間に立っている」「ああ、僕にも"PAUL"が見えた」
 私は振り返った、すると4メートルほど離れた人並みの中にコリンが電話を耳にあてながら立っていた。彼は優しい微笑みを浮かべていたが、その姿は以前より少し痩せているように見えた。
 スーツケースを駅に隣接するホテルの駐車場に停めたコリンの車に積み込むと、私たちはゆっくり駅の周囲を歩きながらサンドウィッチを食べた。そしてひと時カフェで過ごした。
 彼はこの度の日本の地震についての話をした。彼は3月11日以来毎日、日本の地震に関するニュースを聞いていて、私が渡仏する寸前も非常に心配してくれていた。しかも私に、外出する時はスカーフを頭から被り、1日に3回シャワーを浴びるように、と連日のように言っていた。私は、あなたは私が被爆したと思っているの? と尋ねたら、いいや、そんな事はまるで望んでいない、と言った。だが、フランスに伝えられていた日本の地震に関するニュースは日本のニュースとは大分異なっていて、映像についても私たちがTVで観るものとは違うシーンが放送されていたことは確かである。あまりに放射能汚染を気にかけて色々物言う彼に、私は一度「don't provoke me」と言ったことがある。彼は「i'm sorry」と言ったが、私は後で彼に申し訳ないことを言ったと後悔した。彼が心配するのは無理も無いことで、しかも私の渡仏さえ無理ではないかと彼は考えたこともあったという。3月17日に私が乗ったAIR FRANCEは飛んだが、実に前日の16日はANAのフランス行きは欠航となったと聞いた。...ガソリンスタンドには長蛇の列、スーパーマーケットから食物が消え始めた3月11日を過ぎた日々だった...。
 そして地震の波紋はあらゆる事、あらゆる場所へと飛んで行く。それが2011年の3月の日本であり世界なのだ...と言いようの無い気持ちになり、私はひどく疲れていたが、逆に気持ちは大変にしっかりしていた。何かひとつが壊れるとその余波はそこだけに留まらず広がっていく。起こったことを嘆くが、嘆いているだけでは始末が悪い。私は嘆かないことにした。そうではなく、嘆くのではなく、始めるのだ、ダメージを受けた時ほど物事を改めて始めるための絶好の機会はない、そう思ってみれば、私が後にした日本はそのような過去を持っている国である。しかしそのダメージを克服し平和を愛そうとしてきた日本がひとつの事故を起こした。これは地震の惨事とはまた別の問題なのである。そうして私は今回の地震に傷められた日本を自分の躯のように感じたりしたが、それは些か傲慢だとも感じた。私は私自身で私を生かす/活かす必要があるだけの人間だ。"nowhere woman"かもしれないが、センチメンタルではない。現実に勝つような手腕も持ち合わせていないが、無能でもないだろう。地球のエネルギーに抵抗することはできないが、不毛を引き起こすような事は、しない。だが、失敗を経験と名付けて片付けるには少し年齢を重ねた。私は時に"不謹慎"と言われるような者だが、それでも家族や友人を想った。

 リヨンの街の中を通り抜け、車はハイウェイに乗った。道路沿いには大きな工場や石油タンクが見える。これらの景色を私は以前にも眺めていたことはあるが、この日は何かいちいち気になった。フランスには日本の比ではない数の原子炉があり、それに関する話も彼から聞いていた私である。ハイウェイを降りればのどかな田舎道、そしてワインディングロードを走り、車はメゾンに到着した。
 私はその夜、2日ぶりに...いや、もっと前からそれを求めていたかもしれないが...安眠することができた。

 翌日、19日のフランスの空は晴れていた。コリンは言った、「君が来る前まで、ここは雨の日が続いていた」
 その後しばらく"vernal flower"と言いたいような麗しく晴れた日々だったが、先週の後半あたりからフランスの青い空に濃い灰色の雲が浮かんでいるのを見るようになった。恐らくそれらは汚染された雲だろう。勿論白い雲もある。だが、その濃い灰色は更に黒に近く見えるようになり、それらは山々の天辺にかかり、雨を降らせる。牧草地には牛や羊がいる。またこの辺りは葡萄やオリーヴ栽培が盛んである。
 だが、誰が破壊することを望むだろう? 例えばテロリストと称する者たち以外、誰が。
 何故なら、通常、私たちの喜びとは、微笑み、育み、寄り添い、分かち合い、交換し、佳く望むことにあるはずである。
 それだけあれば幸いと思える。
 が、たった今綴った喜び以上のものを求める強い欲望を必要とする状態にある人もいるかもしれない。私はそれを嫌悪しはしない、それは私は嫌悪するということがただ好きではなく、そして私にはそれほど強い欲望というものが生憎、無い。これは美談ではない、私が時に自身の弱さや偏りを感じるから言っているだけである。

 半径数十メートルの界隈で目覚めているのは私だけと感じられるほど静かな今宵。
 小柄なフランスの大統領が日本とどう関わろうとしているのかも気になるところである。
 この文章を書いている現在は4月1日の午前2時半である。
 ですが、私は"嘘つき"では、ありません。

 明日は再びオランジュに行くが、気温は20度を超えると予報は伝えた。


 おやすみなさい。


 Risa