2014年2月9日東京都知事選に向けて - 今、"Don't look back"



 今回の東京都知事選について考えながら、ふと、かつての美濃部都知事時代を想う…美濃部氏の任期は1967年から1979年。現在、45歳以上の年齢の人たちならば、少なくとも記憶されているだろう。東京オリンピックが終わり、日本の高度成長時代がいよいよ進み、1970年代になると大阪万博札幌オリンピックが相次いで開催された。都政としてはそれ以前の自民党推薦の知事から社会党出身の知事(共産も推薦)の革新都政といわれた時代であったが、学生運動浅間山荘事件、テルアビブでのテロ、オイルショック…etc…この頃は荒い時代であった。GHQにより、戦後1ドルは360円(これは<金=ゴールドの相場になぞらえて決定されていた)だったとしても、この時代、安定した経済を整え、世界に面目を立たせるための<満面>の余裕に似た日本の姿が伺われたものだが、その栄華とは別に、解決しきれない戦後問題も、"哀-変わらず"、抱えている気配は拭えなかった。そんな矢先、横井正一さん、小野田寛郎さんという、日本兵が各々グァム島、ルバング島から漸く発見され、帰還したというニュースは、私のような当時の子供には驚きとしか思えず、いや、子供だけではなかっただろう、全ての日本人が驚異したことだろう。そろそろ戦後30年、高度成長期を迎えた日本人は戦争は過去と認識し、新たな日本として生まれ変わったと信じた。そうして、美濃部という一人の都知事の任期の間、日本の総理大臣は佐藤栄作から田中角栄三木武夫福田赳夫大平正芳とめまぐるしい。因に、浅間山荘事件やテルアビブ空港テロ事件を陣頭指揮していたのは当時、警視庁に勤務していた亀井静香


 その後、都の財政危機を齎せたという結果などにより、美濃部氏は引退するが、実際、氏の都政に難が起こるのは都政だけではない別の圧力もあったのではないかとすら推測したくなる。 
 時代が1980年代になると民営化、日航機事故の後のG5によるプラザ合意、そうしてバブルへと向かう。日本の総理大臣は鈴木善幸から中曽根康弘(原発政治家)、1982年当時のこの内閣の外務大臣安倍晋太郎)、米国大統領はレーガン(当時のアメリカの政策がレーガノミクス/Reaganomicsと呼ばれたことを最近知ったが)。その美濃部都知事の時代が終わり、世界が本格的に新自由主義、"小さな政府"と形成されていく事が顕著になったのは、この頃からだろう。


「バブルは牛の匂いの泡であり、そのツケとして、日本は米に高い金を払い続けた」と、書けば、今日の日本人なら、必ずご理解いただけるだろう。


 私は政治が専門ではないので、奥深い話など出来はしないが、それでも、子供の頃から感じてきた世の中の動きに対して鮮明に、敏感に着目したくなる事実が時代時代に、あったものだった。
 おかしなことに、どの都知事より、美濃部氏の時代のTV報道のイメージをよく憶えているのは、私の祖父の容姿がどこか美濃部さんに似ていたせいもあるかもしれないが、あの1970年代は、子供でさえ、少女でさえ、日本の今と将来について、それは、「ふぅ〜ん…」という程度であっても、耳について離れないようなニュース報道の時代であった。良い事ばかりがあったわけではない。悪い事、恐れるような事件が多々あり、それは今も変わらない。しかし、報道は、現在より、速く、時に偏見や誤りこそあれど厳しくもあり、風評を煽ることもあっただろうが、そこに視線を向ける事に民人が熱心になれるような勢いがあった。<情報を公開する>、という立場のマスコミの在り方が、今日より逞しかったような気がしているが、それは、私が若すぎた故の幻想だったのだろうか。
 やがて何時しか、報道を信じられなくなった。インターネットの普及も理由だが、TVや新聞の中に綴られる事が絵空事のように見えはじめたおかげかもしれない。
 "絵空事"とは、"夢"と解釈してもよいし、"ファンタスティック"ではあるが、それだけを求めたら、潰れる。つまり、<空言>、或は<イリュージョン>と化した中での日常やそれに洗脳される愚かさ、侘しさを認めず、如何にも"夢"や"理想"と代弁する行為を言う。筋道がなければ、永遠の"Wonderland"…。
 それは21世紀において、インターネット時代において生じていく課題でもある。
 そうして私は、<イリュージョン>の中に生きるつもりはない。


 思えば、私は成人してから、たまたま日本にいられなかった時以外、必ず選挙には足を運び、自分の一票を投じている。
 私が大学を卒業し、後に一時期音楽教師という職についた時、私に「辞令」の印を押した東京都知事鈴木俊一だった。
 東京の人口は1300万人、年間の東京都の予算は12兆円とも13兆円とも言われているが、これは例えばスウェーデンの一年の国家予算と同じ額と言われるらしい。一地方都市としての東京の持つ力を金銭で見積もるつもりはないが、それだけの金を動かす地方都市である以上、確かな民意が繁栄され、結果が出る事を今回の都知事選に求める。
 そうでなければ、確実に、東京は、日本は民主主義ではない、という事になる。
 オリンピックどころの話ではない。そんな、デモクラシーも成立しない都市で、オリンピックなど開催したところで、夢も意味も、無い、と、私は感じる。


 
 



 - 写真は歴代の東京都知事の経歴と新旧の都庁。以下は時事通信社のものを引用 -


 安井 誠一郎: 初代〜第3代 都知事:安井 誠一郎(やすい・せいいちろう)在職期間:3期(1947年5月3日〜59年4月18日) 1947年4月、公選となった東京都長官輩出選挙に立候補し当選。同年5月の地方自治法施行により、初代東京都知事となった。在任中には、全国知事会の初代会長にも就任。知事退任後の60年、衆院選で東京1区から出馬し当選したが、任期中の62年1月に死去した。 


 東 龍太郎: 第4代〜第5代 都知事:東 龍太郎(あずま・りょうたろう)在職期間:2期(1959年4月23日〜67年4月22日) 1959年、自民党の推薦で都知事に当選。医学博士で日本におけるスポーツ医学の草分けとして、スポーツ振興に力を注ぎ、知事就任前には日本体育協会会長・日本オリンピック委員会委員長を務めた。50年から68年まで国際オリンピック委員会(IOC)委員も務め、64年の東京五輪誘致に深く尽力した。東京大学名誉教授、全国知事会長。 


 美濃部 亮吉: 第6代〜第8代 都知事:美濃部 亮吉(みのべ・りょうきち)在職期間:3期(1967年4月23日〜79年4月22日) 社会党共産党を支持基盤とする革新知事として3期12年を務めた。2期目の1971年の選挙では361万票を獲得し、当時の史上最多得票を記録した。任期中は福祉政策・公害対策を進め、歩行者天国の実施や都主催の公営ギャンブル廃止なども手がけた。退任後の80年、無所属で参院選に出馬し当選するも、任期途中で死去した。 


 旧東京都庁舎: 万国旗で飾られた東京都庁に着いた東京五輪の聖火(東京都千代田区丸の内) 


 鈴木 俊一: 第9代〜第12代 都知事:鈴木 俊一(すずき・しゅんいち)在職期間:4期(1979年4月23日〜95年4月22日) 自治庁(現総務省事務次官を務め、1958年に官僚最高ポストの内閣官房副長官に就任。都副知事時代は64年の東京五輪開催に尽力し、副知事退任後、70年に開催された大阪万博の事務総長も務めた。知事当選後は、革新の美濃部都政が残した巨額の累積赤字を短期間で解消。東京湾臨海副都心の建設や都庁の新宿移転に力を注いだ。全国知事会長も務め、4選を果たしたものの、バブル崩壊による都財政の悪化、臨海副都心開発の遅れなどひずみが目立ち、不本意なまま引退した。 


 青島 幸男: 第13代 都知事:青島 幸男(あおしま・ゆきお)在職期間:1期(1995年4月23日〜99年4月22日) 放送作家としてデビュー。「シャボン玉ホリデー」「意地悪ばあさん」などのテレビ番組に自らも出演し、お茶の間の人気者に。小説「人間万事塞翁が丙午」で直木賞を受賞。1968年に参院全国区で初当選。公報、政見放送以外は選挙運動をせずに連続4回当選。消費税の強行採決に抗議し89年に議員辞職。92年、参院比例代表で5選を果たした。95年の都知事選に議員を辞職し出馬、無党派層の圧倒的支持を得て初当選。世界都市博覧会を公約通り中止したが、指導力を発揮できない場面も目立ち、1期で引退した。 


 石原 慎太郎: 第14代〜第17代 都知事:石原 慎太郎(いしはら しんたろう在職期間:4期(1999年4月23日〜2012年10月31日) 大学在学中の1956年、「太陽の季節」で芥川賞を受賞。68年に参院全国区でトップ当選し、自民党に入党。その後、衆参両院で国会議員を25年務め、環境庁長官、運輸相を歴任した。 都知事就任後は、ディーゼル車の排ガス規制など先駆的な政策を実現。半面、中小企業支援のため2005年に開業させた新銀行東京は、ずさんな融資で経営危機に陥り、400億円の追加出資を余儀なくされた。10年4月、平沼赳夫経済産業相らが結党した「たちあがれ日本」では発起人に。12年10月、衆院選に出馬するため、猪瀬直樹副知事を後継指名し、都知事を辞職。その後、たちあがれ日本を改称する形で太陽の党を結党。日本維新の会に合流後、橋下徹大阪市長とともに共同代表に就任した。同年12月の衆院選で当選し、国政に復帰。 1975年の都知事選では、現職の美濃部亮吉氏に挑戦する形で出馬するも落選している。俳優の故裕次郎氏は実弟。長男は自民党衆院議員の伸晃氏、次男は俳優の良純氏。 


 猪瀬 直樹: 第18代 都知事:猪瀬 直樹(いのせ・なおき)在職期間:1期(2012年12月16日〜13年12月24日) 作家として活動していた2007年6月、石原慎太郎知事の要請を受けて副知事に就任。12年12月石原氏の辞職に伴い、後継指名を受けて臨んだ知事選で過去最多となる約434万票を得て、初当選した。青島幸男、石原両氏に続き、都知事は3人連続で作家出身となった。知事就任前、小泉政権時代の02〜05年には、道路公団民営化推進委員会の委員として、公団の分割・民営化をけん引し、名をはせた。知事在任中は、20年夏季五輪パラリンピックの招致に取り組み、13年9月にブエノスアイレスで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会ではプレゼンテーションを行い、1964年以来56年ぶりとなる東京五輪開催決定に貢献した。しかし、13年11月になって、知事選直前に徳洲会側から現金5000万円を受け取っていたことが発覚した。受領の経緯などに関し、記者会見や都議会総務委員会での発言が二転三転したことから、都議会は強い調査権限を持つ「百条委員会」を設置を決める事態に発展。同年12月、都政混乱の責任を取る形で辞職した。在職期間は歴代最短の372日。 


 東京都庁舎: 東京都の新宿副都心にある東京都庁第一本庁舎 




 戦後の東京都が、特に1964年の東京オリンピックの前あたりから、どのような都市計画/都政を主にして形成されてきたかを理解するのはもはや簡単である。そのように築かれてきた結果、今日があると思うと、今、都民が求めるもっとも相応しい知事としての人材を、私たちが気を確かにもって選択するには、絶好の機会だ。




 Risa Sakurai / 桜井李早