余白 - Risa is The mad as a hatter or No Face No Name No Number -



 以下は今から20年前にひとつの創作のための"note"として綴ったもの。死者の顔に白いハンカチーフをかぶせるようにしてきた古いテクストを久しぶりに開けば、それは自らの"白ウサギの部屋"…


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 …もう何年も生きる屍だったようなものだった。若き恋の幻想に溺れた屍。だから罰が当ったんだわ。だけどその屍も復活したわ。苦痛や苦悩を生きぬいた勝利感。そういう価値観に暇を出してしまっていた。私はね、ちょっと贅沢な旅をしたあげくに辿り着いた甘い楽園に引きこもっていたのよ。馬鹿げたことに、私は半分少女のころから抜けだせない自分を弁護しつづけてきた。もちろん、それは一見恵まれているように思えても、実際には不幸なことよ。私、ちっぽけな庭を一生懸命になって飾ったわ。悪戯に笑い、あなたと正反対に生きるために。わかるでしょ。エゴイストで情けない女だったのよ。 
 私は無闇に寂しがらないことにしているの。喩えてみればね、デパートに行ったって、不景気な顔の客には、店員さんだって寄ってはこないものよ。それは自分を放置してしまうことで、そこで亡霊が生まれる。母親がつまらない顔で生きていたら、その子供たちはその母親の寂しい思い出を一生背負って生きなければならなくなる。こんな悲劇的なことはないわ。だから、風通しをよくしていなければいけないわ。例えそれがくすんだ壁に覆われた一室であっても、暗い夜の不安であっても、私はそこで会うものを拒まないようにしようと思った。
 少し気を楽にして、恣意的に対話するの。悪夢だって興味深い友人よ。ええ、恐ろしい夢を見たわ。暗い地下へ続く階段を見知らぬ人たちと共に列をつくって降りて行く夢よ。螺旋階段のまわりには幾つものドアがあって、そこに入る者もいれば、ただ通り過ぎる者もいる。私は一番下まで降りて行くグループに属していたわ。そこはきっと地獄だと思った。ところが、辿り着いた広場には噴水があったり、ワゴンの中に果物や飲み物が置かれていたりする。誤魔化されてはいけないと注意していると、ぽっかりと開いた壁の穴から子供をおぶった女たちが薄ら笑いを浮かべながら這い出てくる。しらじらしい気味の悪い笑顔。私は、夢の中で、この人たちはきっと言葉も記憶も失っているのだと確信しているの。彼女たちは黙って私の前を通り過ぎて行く。そして私は吐き気を感じながら、これからどうなるのかしらと思案していると、祖母の声が聞こえてきたわ。声は私の名前を呼ぶ。私は振り向いた、声を頼れば、必ず死ぬことになると覚悟しながら。お祖母ちゃん、私を連れて行かないで。でもそこに立っていたのは祖母ではなく、私の知っている別の女性、ひとりの友だった。ああ、私は生かされた。私は私自身の命を嘆いたりしない。私が見た物は、私の心が警告した私の臆病だった。
 追い詰められたような私が初めて感じた単純な衝動を、私は空に書いてみた。まだ遅くはない、まだある、もっと続く、歌うことは出来る。たった今、この柔な心臓が絞り出す狂乱したレシタティーヴォに私の脳みそはどんなアリアを連結させたら美しいかしらと考える。私は人を悲しませたくない。
 悪夢のように現れた子供をおぶった女たちは、ペルソナだったのよ。逆さまの世界が、私の精神世界を洗う。
 私は夢を反芻して気づくわ。私はその、実は、ゆったりした足音が連れてくる奥ゆかしい心に見舞われていたと。
 私の心は揺さぶられ、凍りそうだった血もだんだんと活発に流れはじめる。羽化するのを待ちわびた窮屈な躯が、世界に触れることを許される。私の気管は復活する、もうすぐ私は再び地球という大きな卵を温める一員に戻ることを許される。
 生きることに満ち溢れる日々。ああ、あの躍動感、若かれし日の荒々しい生命力を謳歌し、未来を実感した記憶。迂闊に扱うことが許されない豊かな記憶なのに、何時しか軽んじて過してはいなかったかしら。
 その記憶は言わば故郷。
 ねえ、故郷というのは、ひとつの土地の名だけを指すわけではなくて、ある時期から人の心の中に住みついた感情の象徴を指すのだと思わない? 
 それは家紋のように最期までその人の胸や背中に刻まれる。かつては小さな輪だったけれど、あの小さな輪がもっと大きくて頑丈なものになっていったら…私たちの抱える苦悩がもしも軋んだ小さな歯車と感じるなら、そこで、同じ場所に、そうよ、周りにもたくさんの同胞が見隠れしていて、それぞれがいっせいに切磋琢磨していると思ってみるの。すると、私たちの行動は何て勤勉で繊細な色取りを帯びているんだろうって思えてくる。
 そう考えないと、世の中は狭苦しくて混乱したものになってしまうはずよ。
 カオスは人の造り出すもの。
 神がいるのだとしたら、その神がそれを造りはしない。
 しかし、私は人間の世に生きている身...



 光りの塔に閉じ込められて、私は暗闇を模索した。明るい光は、人を平穏という限りない安寧と理想で束縛する。それに対して闇は、不穏な笑いで人の心を穿とうとする。
 しかし、その穿たれてぽっかりあいた穴こそが、人の行動を導きだし、試し、前進させるのかも知れない。
 その暗い穴の中にこそ、私たちの本当の自由が怪物のようにうごめいている。


 あなたの自由が本物なら、不幸せになるはずはない、天が与えた自由なら、あなたが恐れるはずはない。




 by Risa Sakurai / 桜井李早©


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 が、私はその夜、確かに、"Alice in Wonderland"だったのだ。
 音楽の導く世界は、魔法の茸の齎す世界のごとく… 




  


 picは1月11日のカルメン・マキさんのライヴが跳ねた後。




 
 Risa :*)