「Le Jardin Féerique / Maurice Ravel」を弾きながら
日々、自分の好きなように自分の仕事をするだけで夢見る事ができる人ならともかく、一般的に、人間の生活はそのようには運ばない。私に今できる限り働き、私に今できる程に、人たちに心を向けて接しようと心がけていて、それも辛くなる時、私はピアノと共にひとり、別の世界に向かう。
それは陽も暮れてから、樹木が影を垂れ込めるのに飽いた頃、モーリス・ラヴェルの"Le Jardin Féerique/妖精の園(英語では"The Magic Garden"と表記されることもある)を弾き始める。
…はゆっくりと起き上がる。
だが彼女は、眠っていたわけではないのだ、決して。
彼女は自分の髪がすっかり白髪になってしまったような気がしていたが、しかし、彼女の長い髪は解き放たれた三つ編みのように緩やかに彼女の身体を優しく包む活き活きした茶色を留めていた。
だから歩き始める。
それは、最初の女のように。
そこは太陽の国であり、凍るような雪の国であり、また、落葉に染まる真っ赤な世界、そして綿菓子のような薄桃色の花々が屏風のように眺められる不思議な世界だ。
ここには悪も嫉妬も悲しみもないように見える。
ここはどこか野性的だが、喧噪というものがない。
それは人間の暮らす世界ではないからだろう。
そう、確かに、人間の匂いがしないのだ…。
…は、花の蜜を吸う。
…は、太陽の彫るTattooを心地よく受け流す。
…は、冬のダイアモンドの奇想を笑い飛ばす。
…は、秋の血を吸う。
何故、女性は花や月や猫などに喩えられるのか。
それは女性とは、沈黙だからである。
女性がおしゃべりだなどと言うのは、戯言である。
詩とは、女性なのである。
夕刻にむせび泣く赤児のように、あなた方は、泣くわ。
絶望の王子たちよ、あなた方は心の隙間を何によって明かすのだろう。
他言は無用、あなた方は、無垢である。
それでも、心に任せ、惜しみなく、訴えれていれば、それでよい。
楽なものである。
が、静かにせよ、ここは"Le Jardin Féerique/妖精の園"。
孤独の中に、蹄のごとく、私たちの求める啓示が、次々、見当たるだろう。
この楽曲、'Le Jardin Féerique'は、ラヴェルがそもそも"Ma Mere l'Oye"(英語では"Mother Goose Suite"ともタイトルされる)という組曲として、子供のための連弾(4 hands)として作曲したのだが、もはや大人である私には連弾する必要はない。私のふたつの腕で、成り立つだろう。
私は今、花咲く孤独をここで、抱きしめている。
Risa Sakurai / 桜井李早©