『A rebours/さかしま』...或は『雨の午後はヤバイゼ』



 今日、私が私の朗読のためのテキストとして扱った書物は、J.K.Huysmans(ジョリス・カルル・ユイスマンス)作、『A rebours/さかしま』。私の持つこの本のカヴァーは、今や随分日に焼けているが、この本をこのような雨の日に開くのは、悪くない。
 外から聴こえてくる雨音は、春のそれらしく、統一に欠けていて、あたかも洞窟に潜んでいるような気分でこの本を声を出して読んでいると、いつしか自ら眠りに陥りそうになる。
 だから、淡々(眈々)と、自分の声に野心を注ぐことにする。それは一応、雨音の不規則、身勝手に応じながらも、リズムを整えようとする。
 しかし、これは、他者(ひと)の綴った文章である。
 故に客観的になれるのだが、これを音読する自分が沈黙を意識し、自らを引いた形で語ろうとしているように思えてくる。それとも、雨音のせいだろうか。
 そのような"気分"というものに左右される常套的なことを排除したくなる。
 実際、私はユイスマンスのこの作品を翻訳した澁澤龍彦氏の、翻訳者として、また文学者としての功績を、非常に賛美しているのだが、そのような才を氏の文章に感じ、それを汲取ろうとして役割を果たそうとすると、私は"誰か"になってゆく。つまり、私は私ではなくなる。
 ところが、自作の文章を読むとどうだろう。
 私は歌う時と同様に、呼吸を分配しながら…それは、ヴレスという意味だが…読み、吐き出す息の音やさざ波のようなざらっとした空気を言葉たちの中に混ぜ込もうとする。
 私は役者ではないが、演技をするように読もうとする。
 が、私には文章が台本という意識はない。
 あくまで、朗読なのである。
 それは、母の読み聞かせや、父の枕元の昔話のようなものに似ている。
 幼い頃、母の読み聞かせ、そして、父の少年時代の物語を眠る前に毎夜、聴いた。
 ひとつ、そして、またひとつ、更にひとつ…と、お話が終わると、ぱっちり目を開けたまま、「もっと…」と言っては、両親に溜息をつかせたと聞いている。
 私に子供があったなら、きっと、その愛すべき者が眠りにつくまで話し聴かせたことだろう。
 しかし、私の朗読は寝間の場所で行われるわけではない。
 できれば、私は踊るように、歌いかけたい。
 更には、歌うように、話しかけたい。
 私は、何を持ってしても、私である必要がある…。
 そういうことを確かめた、4月3日。




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 Risa Sakurai / 桜井李早 :*)