棒大なる針小



  




 今日は膨れ上がっていた私のメモたちや綴りかけの文章たちを汲取る作業で午後を使った。「仮構線プロジェクト」の事、そして時々、紅い月の事も考えながら。
 夕刻になれば、狼のような光る眼をした女がまき散らした言葉を愉しむ。
 そうして今、それからしばし離れ、彼のウィットを感じたくなる。彼の名はG.K.チェスタートン(Gilbert Keith Chesterton)。先日私はこちらにバーナード・ショーの言葉をあげたが、ショーとチェスタートンとは良き友であり敵同志でもあった。
 そこで、ここに写真であげるチェスタートンのこの著書からの言葉ではないが、彼が言ったこのような事を引用したい。


「巨大な光が夜の闇を貫いて夜明けを指し示す。轟音を発して回転しつづける輪転機は、来たるべき時代の運命を紡ぎ出すものだ」


 今、自分たちの世界で起っていること、表されていることについて、どう、目線を持っていくかは大事だ。庶民でも、富める者でも、或は私のような乞食王女でも。
 そこで万人に解釈できる事とは、碌な事でもないと言い切りたいが、その万人の水準がまず、問われる現代である。
 しかし、それぞれが日常に持つ考えはともかく、あの紅い月などを見れば、人によっては、自分の手に負えない今日の状況について、何か思い起すこともあるかもしれない。それは古代人の想い描いた迷信のようなものではなく、もっと科学的であったり、或は、いつしか人間という動物が無意識に動かされてきた"変化"への不自然さ、窮屈さ、或は、逆に、習慣への疑問とも言ってよいかもしれない。習慣とは、文明が作り上げたものの一部だが、それは自然とは異なる。が、安心できるだろう、何故なら、私たちは常に自然に触れて生活しているのである。その自然とは、何も、木や花や猫や犬、狼と限ったことではない。あなたの隣に座っている人間も、自然なのである。
 それはつまり、「私」と名乗る個人が作用する事を越えた某かの力であり、それは一見、日常とかけ離れている存在や世界と想像しがちだが、そうではない。それは、そう、遠くにあるわけでもない、という事である。
 例えば、それはあなたの隣にいるもうひとりの人間の脳の中を、読み取る事ができないように。
 その隣人が、電車の中でiphoneを握りしめ、せっせと何か書いていたり、指を動かしていて、あなたがそれを覗き込んだからといって、その隣人の脳内までは、計り知れないというように。


 さて、明日は私、「逆さまの国」で生きるだろう。
 もしくは、「一本のチョーク」を持て。
 それはあたかも、一寸法師の小さな針の如く。




 Risa Sakurai / 桜井李早 :*)