台風の夜、国立にて








 昨日は「野戦の月海筆子」の打ち上げで国立市の木乃久兵衛(キノ・キュッヘ)に出かけた。集った皆さんと今年のお芝居の事、この20年の事など愉しいお話をたくさんさせていただいた。
 その席で、ピアニスト/原田依幸さんにも久しぶりにお会いしお話しながら、私は吸い込まれるように氏に自分との共演をお願いした。すると原田さんはすぐに、「いいですよ、いつでも」とニッコリしながらおっしゃってくださった。何て素敵な事でしょう!?
 氏は私の大学の大先輩(安保の時代の在学である)なのだが、お若い頃はNYを旅したり、そして自らのおやりになりたい事をされつづけている素晴らしい音楽家である。原田さんの出すピアノの音は深く、どっしりとしていて、しかも情感に溢れている。空間と音の響き、無駄はなく、そう、氏は余計なものを排除してすっきりと、そういう生き方が音楽に現れている。
 私は、俎の上にいるように、ひりひり緊張しながらも、実行するために身体を張り、待つ事を糧にしなければいけない者だ。
 だから、もっともっと叩かれ、時に惨めになりながら、未知を探ってみたい。
 それが示す事情とは、生きるってワイルドな事、と思えば、当然の成り立ちなのだ。
 あなたの一日の疲労や家族の幸福や食事を削減してまで歩み寄る<何か>という人生の一部がどれほどか…それでも、少しは余裕があるなら、楽しみは絶えないでしょう。固有名詞として人の世が命名してきた様々な豊かな事柄…はい、私の中では、それは唯、美。生活の中に美がある事。ここに在る食器の美、壁紙の模様とそこに私が付けた絵たち、旅した記録、様々な仕事、出会ったものたちが私に残り…しかし実在として残るものと、消えてしまうものがあり、それはいたしかたない。実在とはそれほどあやふやで、不確かなものだと思う時、
 そこで、ピアニスト、原田依幸さんの音について私が感じるのは、それほど、久遠に響くような純度である。そこには、人生が強く浮き彫りになりながらも、あたかも、追っても詰まらない人の情というものからかけ離れた世界がある。
 それが、研ぎすまされた品位というもの、なのだろうと、感じる。




 桜井李早 / Risa Sakurai