- つれづれなるままに、例えば、「確かにそれが愛したのは神だけ」…などという言葉についての邪悪な考察として -



 名(或は固有名詞)に囚われ靡く軽卒が世の中にはある。そして正しく文字を読む事ができないと、人が靡くのは風によってではなく、絡繰りによってだと気づかない事もある。
 例えば物事を誤った方向へ導く事が楽に進められる前に、今まであなたはそれがそれほど好きだったかどうか確かめる必要がある。
 よく読む事ができない者は愚かな風に吹かれる。それが国語であっても、読み取る時を疎かにすると書き手の真意を台無しにする事のみならず、表現の才覚さえ台無しにする残酷な行為になりかねない。
 太郎が5個の林檎を持ち、次郎がそこから7個の林檎を奪ったら、残りは幾つになるか?
 それは簡単な解答だが、マイナス2個の林檎など在り得ないという脳味噌の片隅にある我々の現実的、平易によってそれが同時に証明されてもいる。
 マイナス2個の林檎を望むような考察に取り組む事は想像のうえで成り立つが、マイナス2個の林檎は無いのだから、解らなくてはいけない。
 人間は理想を持つ。これは、あまりに理想主義者/idealistであっても、物事や事件の核心に迫る事が難しいという事の理由であろう。
 だからして、例えば、「愛したのは神だけ」と言ってしまえば、全て道理がかなうように、誓って望んだ行為として、地に或は、血に、或は水に、空に火によって吸い尽くされる。
 そうしてそれが如何にも、「事件の核心」であったかのように見え、マイナス2個の林檎が成立するように、世界はあいもかわらず、選択肢を見失ったまま歩いていくのだろう。
 そこに、毎日のように、「事件」も、「核心」も「神」同様、ありながら。




 李早