撥ね除けなければならないものがあるとしたら








 色々言っても何も進んでいない人がいる。進んでいないとは国や政治のことではなくそれを言う本人のことだが、何か運動家めいて自分が正しい人であると共有者の数で座布団十枚貰った気で異なる考えを持つ個人について理解不能などと言う人が現われる。それが生活の張り合いならクダラナイ。
 理解不能なら直接その人に会いにいって話せばいい、例えば夜中過ぎに写真とインタビューをsnsにあげて意見するより気が利いているだろう、それが報道によって公にされたものであれ取材された方は公人ではなく個人、名前と年齢のテロップもあるとなるとその人は自分の知らないところでネタにされたわけだ。


 私は先にあげたような行為をsnsで無邪気に行う人に感心できない。政治批判や歴史について学ぶ姿勢はいいだろう。そして日本が見誤ってきたことを正したい心意気も理解できる。が、人の発する声にはそれぞれの人の人生や過去が重なり合う。それまでを他者が否定していいものだろうか。


 あの震災以降、モグラ叩きのように片っ端からsnsで人々を追い共有し得たと確信している人が多いだろう、ではあの震災以前は皆どのような意識で生きてこられたのだろう、あの震災以前からこの国は様々な問題を抱えていてもそういうことは気にせずともよかったと言われているようで何か腑におちない。


 思想とは自由なもので各々異なった考えを持ち声をかけ合い、時に戦いながら育っていくものだ。レストランの味にケチをつける行為もその分に入るかもしれないが、餓えとの瀬戸際にある者にとってはそんな不平はどうでもよい、マッチ売りの少女同様、蜘蛛の糸にも似た目の前の救いこそ現実となる。


 批判を重ねる事が楽しみとなりそれが生活の自信に繋がっている場合、それはモグラ叩きかもしれないと立ち止まってみるのもいいだろう。
 ウィリアム三世はモグラの塚につまづいて死んだという。
 それは偶発的なもので流行病に近い。事を正しく観るには砂漠か夜の海に立つしかない。
 それは孤独に立つ脚だ。


 あの時どうだった、とか、こうだった、とか、それらはもう過ぎてしまったことなんだよ。


 今後の提案が言えないのであればそれは安倍政権と同じ道を別の立場から歩んでいる行為ともいえるかもしれなくてね、まず自分の頭のハエを追うこと、そして宅のような自由業は無闇にモグラ叩きはしない。


 時代錯誤の人間の発言を批判しているうちは民主主義なんてとうてい叶わないんだよ。
 民主主義とは人を孤独にする。
 こういうと日本人には不愉快かもしれないので緩く言えば、民主主義とは人を孤独に導く場合があると今日は書いておこう。
 西欧はそれをフランス革命後に認識した。


 ところで、ずっと椅子に座って作業したりピアノに向かっていると脚が浮腫むが、人間は座っている時間が長いと早死にすると聞いたことがある。
 W・チャーチルは歩き回りながら思考したらしいが、何、彼を好もうが好むまいがその態度は的を得ている、太っていたのだから。
 私は今日は少し増えて37kg、まだ余裕があるわね。


 だからね、人間にとって必要な事はつまり、脚が浮腫んだり早死にしないためには、"大胯びらき"なの。
 誤解しないでね、これはJ・コクトーの作品のタイトルよ。
 彼は書いたわ…


 "我々の地図は折り畳まれているので中を貫く一本の大きな道を我々は見ることができない"




 地図を開きましょう、せめて。




 撥ね除けなければならないものがあるとしたら、それは己のエゴだということを、皆、知っているでしょう。




 私は、しばし、眠ります…わ…




 桜井李早




 pic: "The Sleeping Princess" ~ Frances MacDonald