- チェスタートンに学ぶ"固められた古き道徳"のスジへの疑問 / picは私の記事と直接の関係はありません -



「大きな道徳の力を弱めようとする風潮よりもっと悪いものがあるとしたら小さな道徳の力を強めようとする風潮である」と言ったのは英国の作家/批評家チェスタートン。
 例えば早起きはそもそも個人的便宣、生活調整の手段として考えるべきところを多くの人はこれを道徳のひとつとしているというような。
 早起きとは生活上の知恵ではあるが早起きに本質的な善はなくまたその逆、つまり遅く起きることに本質的な悪があると言えない、と、こういう論で道徳について考えると、以前久米宏氏が夜のニュース番組のお仕事をされていた頃にちょっとボヤイた言葉を思い出す。
 それは氏の日常における朝のゴミ出しについてのささやかな感想だが、夜の10時に生放送でスタートする報道番組の仕事をすることで帰宅時間が遅くなることは誰でも理解できるし番組のための打ち合わせが放送を挟んで前後に行われることを思えば早起きはかなり厳しい。
 久米さんは「僕のような仕事だと朝早くにゴミを出すのは大変なんです」というようなことを番組の終わりに苦笑しながら話されていたが、多くの人々は早起きは三文の徳という聞き慣れた諺通り、人は朝は早く目覚め決められた時間にゴミを出し仕事に行くことは徳でありそれ以前に社会人として当然と思っているかもしれないが世の中には様々な社会人がいるわけだ。
 午前3時に帰宅する者は必ずしも呑んだくれとは限らないし…  


 と、ここで世間の道徳心に満ちた人々の考えを思いはかりながら想像するに、それでも決められた時間に忠実であることは善である、という一般論だ、これが、恐い。
 だが、角度を変えてみれば…


 午前2時に起きて市などに仕事に行く人を思えば午前5時や6時に起きた者は遅く起きる人となる(これは時間という帯)わけで早起き競争をしていたら人は眠れなくなるやもしれない。
 泥棒も早起きかもしれない、人が寝静まった時刻に仕事をすると思えば、が、これについては昨今、例外もあり白昼の詐欺師もある。
  そう「オレ」と名乗り白昼堂々電話で詐欺を働く輩もあるわけで、それを思えば社会が便宣上、生活調整上変化しているにもかかわらず、依然として古くから伝わる価値観はそれに追いつこうとせず据え置きとなっている。
 これは早起きは三文の徳的な小道徳による陰謀による不幸ではないだろうか... 


 社会が変化しているのにその機構が不動であるということは危険なことだとそろそろ人々も気づかざるをえない時代だろう。
 多様性とはそれを意味し、久米宏さんの伝えるニュースで私たちは911をリアル体験したのだから彼のゴミ出しのための早起きが苦痛であることを攻められない。
 また「オレ」と称する白昼の悪魔による老夫人ご紳士の方々の恐怖心を思えば、我々はもはや小さな道徳の表面的な義や善を蘊蓄するほど暇ではなく、道徳より美徳に目を向けろ、などというと気障かもしれないが、相変わらず世間の目は小事を突つくもので、そういう所に置かれた目は破廉恥になる。
 要するに便宣上、生活調整上、私たちはどんな暮らしにも慣れることはできるが思想上のことで葬られる、つまり監獄へ行ったり処刑されることにはなかなか慣れることはできない。
 あの清原にしてもそうだろう。皆、弁当持参か食堂で飯を食うランチが、たまたま"裸のランチ"へと移ろった不道徳…


 だが考えてみれば道徳というものが我々に語りかけてきた恐怖をそれとなく皆、感じているのではないだろうか。
 私たちは火炙りに慣れたくはない。
 そして今も古風な道徳を武器に脅しをかけているのが日本政府であるならば、我々はしくじることなくその悪用される道徳を衛生的判断で壊す愉しみがある。




 桜井李早 









 pic: ユリイカ-1989年7月号/表紙-金子國義