『Die Sünde/罪』- 随分前、チョーサー(Geoffrey Chaucer/1343~1400)風に描いた作物 - 桜井李早©



 私の名は『罪』。いつ、誰が名付けたのか、そうして、一体何のためにこの言葉が生じ、私がそれに該当すると選ばれたのか、私は知りません。私の古くからの知人には、『愛』や『知恵』、『希望』、『憐れみ』…等がいますが、彼らは私よりも好かれているようです。
 そして私は人間がまだ"楽園"という場所に在った頃、その名を与えられたといわれています。書物によると、私が産まれたことにより、人間はその心地よい場所から追いやられ、現在の世界に生きるようになったそうです。私はずっと蛇の姿で表されてきました。そうして私の仮の姿は"女"という生き物とされているようですが、その"女"という種族は私のせいで愚かになったと定義され、長い間、"男"という生き物と同じ権利を与えられないまま生きなければならない状況に置かれてきたようです。


 私の友人のひとりに『嫉妬』がおります。この『嫉妬』も、自分の身の置き所に長く困惑してきたようです。私は『嫉妬』の言い分を聞きました。『嫉妬』はいわば、私の後輩のようなものです。それは泣きながら私に語りました。
「何故、私はこのようにいつも苦しまなければならないのでしょう? 私は一体、何のために産まれてきたのでしょうか? 私は災いは嫌いです。世界の片隅の小さな家を与えられており、本当に私はそれで十分だと思っているのです。それなのに、或る時、突然、命令が下るのです。命令者は私に言います。<そこを出て、大股で歩くのだ。お前のおかげで励まされる人間もいるだろう…>。私は出かけて行かなければなりません。厭な仕事です。私には解っているのです。私が訪問した人間は必ず苦しい気持ちに苛まれる。そしてそこに災いが起る…あなたならお分かりでしょう…」


 また、或る時、私は路上で『貧困』という灰色のマントを羽織ったものに会いました。それは私を見るなり捕まえてこう言いました。
「お前は『罪』だろう? こんにちは、私はお前の評判を知っている。お前の働きで得をするものもいれば損をするものもいるというではないか。一体お前の力とはどこから来るのだ? 私は『富』というギラギラと光り輝くものが排泄したものの中から産まれた。それでも更に『富』は私から全てを吸いつくし、放り投げる。一見美しい顔をした『富』は、禿鷹のように私をしゃぶりつくし、喜んでいる。だから私は次の土地に移らなければならない。私が『貧困』として生きるためには、私は私自身も禿鷹のようになり、私の『貧困』としての仕事が果てるまで、それを続けなければならない。もしもお前が私の言う事を信じないなら、お前は『欺瞞』に会いに行くといい。また、お前が自分の名に疑問を持つなら、『欺瞞』はお前に何か応えることができるかもしれない。しかし、気をつけなさい、『欺瞞』は手ごわい相手だ。ちょっとやそっとでは、本性を見せないはずだ。だから皆、騙されるのだ」


 そこで私は『欺瞞』に会いに行きました。『欺瞞』は広い敷地に暮らしていて、外から眺めるとそれは城のようにも見えました。私がそっと『欺瞞』の門をくぐり、建物の中に入れば、そこには高価なもの夢のような骨董品の数々、かと思えば最新の技術に値する品々が何不自由なく当然の如く備えられています。私がそれらに感心していると、私を呼び止める声がありました。
「何者だ?! ここへ入ることができたあなたは誰かの紹介状を持っているのか?」
 私は自分の名を名乗りました。
「私は『罪』と申します」
 するとその声は先程の尖った口調からほど遠い穏やかな声になって、私に応えました。
「あなたは、『罪』ですか…そうですか…今日は一体、何のご用でここにいらしたのですか?」
「私はあなたと話したいと思ってここに来ました。誰かがあなたなら私の存在の理由を教えてくれるかもしれないと言ったので」
 すると『欺瞞』は姿を現し私に言いました。
「誰がそんなことをあなたに言ったのですか?」
 私は応えて「それは『貧困』です」
「…『貧困』?…ああ、あの"怠け者"ですね。あなたはあんな怠惰なものの言葉に耳をかすのですか?」と、『欺瞞』はあざ笑います。
「私は『貧困』が怠惰かどうか知りません。しかし、私は私の由来を知りたいだけです」。
「あなたは『貧困』の言葉など信じてはいけません。あなたは我々の味方にあって初めて力を発揮する存在です。『貧困』は何ら得策を持たず、状況に甘んじ、時に寄生するしか能力を持ちません。私は進歩が好きなのです。そのために努力してきたのです。誰よりも迅速に手っ取り早く成す事、それを見せつけることによって、私は満たされます。いけませんか? そのような在り方が? それとも、あなたは私を裁きにきたのですか?」
 私はこの『欺瞞』の言葉に戸惑った。何故、私が『欺瞞』を裁くのか…?
「私があなたを裁く?」思わず私は訊きかえしました。
「そうです、だって、あなたの背後には必ず『悪』がいます。『悪』の行く手には裁きが発生し、争いが起ります。それを"戦争"と呼ぶのをあなただって聞いたことがあるでしょう。そして『悪』と争うのは『善』ということになっておりますが、あなたは『善』にお会いになったことがありますか? 私はありません。ただ、私は『偽善』とは親しくさせていただいております。『偽善』はこの世界に"アジト"を持っています。いかがですか、出かけてみては? 『偽善』はあなたを救ってくれるでしょう」
 そう言って、『欺瞞』は薄笑いを浮かべながら扉を閉めた。


 私は『偽善』を探しました。これは、と思う扉を叩き、訊ね歩きました。しかし、どの声も、「私は『偽善』などというものではありません」と言うが速いか、私を閉め出します。
 私は歩き疲れて地面に腰をおろしました。それは夕刻で、どこの家も帳を下ろす時刻でした。その時、私の後ろの窓が開き、誰かが私に話しかけます。
「あら、そんなところで何をなさっているのですか?」
 私が振り向くと、窓辺には小さな顔の"女"に似たものが微笑んでいます。
「疲れてどうにも動くことができなくなってしまったのです」私が立ち上がりながらそう言うと、窓辺のものは言います。
「中にお入りください。私たちはこれから慎ましい晩餐をいただきます。よろしかったら、あなたもご一緒しませんか?」
 私は嬉しくなって家の中に入りました。
 そこは整頓された清潔な家でした。温かい部屋の中で、私の冷たい身体は落ち着きました。見ると、もうひとり、そこには均整のとれた姿をしたものがいます。その存在は何故か私に恥じらいを与えるのです。私はとても場違いな印象を受けました。すると先程の"女"に似たものがこう言いました。
「私は『礼節』と申します。今夜は私の友人の『理性』と共に食事をしようと思っていたところです」
 私は逃げ出したくなるような気持ちになりましたが、我慢して与えられたテーブルに席をとりました。『理性』はじっと私を観察しています。やがて『礼節』が私の名を訊きました。私は応えるしかありません。
「はい、私の名は『罪』。私は私の役割の意味を追求しながら今日、ここに辿り着きました」
 一瞬、食卓に氷のような冷気が漂ったのを私は見逃しませんでした。息を殺すような緊張です。私は自分の名を偽ればよかったと、心底感じました、しかし、もう、遅い…。
 しばらくの沈黙の後で話し始めたのは『礼節』でした。
「私たちはいつかあなたにお会いする時がくると思っていました。それが、今だったのですね。それも丁度よく、『理性』がここを訪問してくださった晩に」と、『礼節』は場を取りなすように私に温かいスープを注いでくれます。『理性』はそれでも細長く整った鼻を正面に座った私に突き出すようにして冷静にしております。私は決して震えまいとして身を固めていましたが、『理性』と視線を合わせるのが苦痛でたまりません。
「さあ、スープを」と『礼節』が上品な声で言います。私は厚かましくも空腹だったのでスプーンを手にしてスープをすすりました。『礼節』もそれを見てスープを口にします。しかし『理性』はスプーンを手にせず、両手を合わせ、こう言いました。
「ここに来たものの心を幸いとさせよ」
 私ははっとして顔を上げました。『理性』はスープ皿に一粒の涙を落としていたのです。そうして『理性』は私に言いました。
「あなたと私は"姉妹"のような関係です。あなたが産まれなかったら、私は存在しなかったでしょう。ですが、あなたはいつの時代にも咎められ、私の仕事の一部はそれを補うことでした。私はあなたに会ってはいけないと言われてきました。それなのに、今日、あなたがここにいらっしゃるとは…私は驚きを隠せません。が、私は『理性』です、どんなことがあっても、揺らいではいけないのが私の努めです。ですからこの私の態度を気にせず、晩餐をご一緒しましょう」
 私は混乱しました。ひとりぼっちだと思っていた私には姉妹がいた。それは私とは正反対に見えるような気高いものだった…。
「あなたは今、姉妹と言いました。では、あなたも"女"なのですか?」私はつまらない質問を『理性』にしておりました。『理性』は私に話し始めます。
「さあ、私は姉妹と言いましたが、私は"性"を持っているかどうか考えたこともないのです。ただ、私が私の司る仕事を長く行ってきた範囲において、"兄弟"と名乗る『正義』もいますよ。ですが、あなたはお見受けしたところ、ほんの一匙分くらい、私『理性』に寄り添ってくれそうです。ですから私は"姉妹"という言葉をあなたに使いました。そしてそれが私がここ『礼節』の家を度々訪問する理由でもあります。あなたはさっき、ご自身の由来を知りたいとおっしゃっていましたね。私とて、同じです。私が何のために私の存在を与えられたか、そして何のためにその仕事をするのか…可笑しなもので、それはあたかも芝居のようです。誰かがシナリオを書いたのです。それは終わりなきシナリオとされ、人間に考える術を絶やさぬように仕組まれた道のりなのでしょう。ああ、私たちの名は、人間のために作られたのです。名は言葉であり、それは信仰と呼ばれるものの中で生き続けるようです。信仰とは、そもそも幾つものカテゴリーを要する可能性を秘めていたのですが、いつしか、それが差別への道にさえなろうとしています。私たちはそれらどの信仰にも存在するものとして多忙な日々を送っています。人間はただそれぞれが信じる道を歩めばよいですが、我々はあらゆる信仰の中に生き、常に目を行き届かせていなければなりません。それがルールのようになってから、どれだけの時間が過ぎたでしょう? そうして、あなたはもう、お気づきかもしれませんが、それは少し変だと思いませんか? 私たちに役割を与え、それをコントロールしているものが何者なのか、私たちは理解しているようでいて、理解していないのです。人間は、それを例えば"神"と名付けてきました。では、私たちは一体、その"神"にどこで出逢いましたか? 私たちはその存在を漠然と想像することはできます。"神"は、道に転がる石であるかもしれませんし、このスープの中にいるかもしれません。ええ、あなた同様、私もあの命令が送られる度に出かけて行き、仕事をします。このシステムが何故継続し、それがあたかも地上の暮らしであるように何世紀も何世紀も納得されてきたことは脅威です。この解決のない世界を、果たして、"神"という存在が作ったのでしょうか? 私は『理性』なので、仕事をしながら思索せずにいられません。ああ、あなたは私の話のために、温かいスープを逃してしまいそうですね。すいません。どうか、せっかくの『礼節』のお持てなしです、味わってください。私もいただきます。しかし、私の"姉妹"よ…あなたには『赦し』という、もうひとりの"姉妹"があることを忘れないでください」。


 その夜、私は眠れませんでした。『礼節』は清潔なベッドを私に与えてくれたが、これは私の眠る場所ではないと、私はさめざめと一晩泣き通しました。


 翌朝早く、私は『礼節』の家をこっそり抜け出しました。道を歩けば、昨夜遅くに降った雨が、水たまりを作っています。
 私はそっと、自分の姿をその水たまりの中に覗いてみました。
 ああ、それは"女"の姿にしては、あまりにも厳しい表情をしているではないか…私は昨夜会った『理性』の顔を思い浮かべました。
 そうして思ったのは、"彼女"は"私"によく似ているではないか、ということでした。


 では、『赦し』とは、どのような表情をしているのでしょう?
 私はそれを確かめるために、まだまだ歩かなくてはなりません。




 "罪によせて" by 桜井李早/Risa Sakurai©







 pic: "Die Sünde" by Franz von Stuck