引力が私に引き起こしたのは・・・

 まさかと思いはしたが、死ぬか、と不吉にも感じた土曜日の22時過ぎだった。
 この季節、私は目眩がすることが度々あり、昨年はそうでもなかったが、一昨年の夏前など、夜、廊下で倒れてチェリーに寝室まで抱きかかえられていったこともあった。寝室は2階なのだが、この時は、男性というものは、流石に力強いものだと実感した。

 実はこの日、昼下がりにも一度、クラッと目眩がし、気をつけていたのだが、お夕食をいただきながらビールを少し飲んだら回復した。で、気をよくしていたのだが、その後、キッチンで後片付けをしていたら、またはじまった目眩だった・・・駄目、倒れちゃ、この洗い物を終えるまで、私は立っているわ・・・そして、終わって居間の床に頽れた。

 一昨年前の晩もそうだったのだけれど、倒れた後、薄い意識の中で、自分の躯が異様に冷えていくのがわかるのだ。
 ・・・ああ、死とは、こういうことなのかもしれない・・・冷たい世界、冷たい冷たい時間の中に埋まっていく・・・と、恐れる・・・いや、畏れながらも、様々なことを想像する・・・

 まず、その土曜の晩は、私はひとりなのである。チェリーはツアー中で、月曜まで家に戻らない。
 ということは、私が今死んだら、屍のまま、この居間の床に48時間くらい居なければならない。そう暑くはないから、それほど腐敗が進行するとは思えないが、さぞかし厭な空気が立ちこめるだろう。そこへ、帰宅したチェリー、恐らく、ゾッとするに違いない。

 しかも、私はまだ今宵入浴していないわ・・・どうせ、屍として発見されるなら、せめてお風呂に入った後の躯でありたい。
 病院で死んだわけではない以上、今、ここで勝手に召された私は、検視の目に合う。
 そうなると、今、身につけている着衣のまま、遺体その他の身の回りの状況を調べられることになる・・・今、どんな服装か・・・ジーンズに長袖の白いシャツ、今日は少し寒かったので薄いウールのカーディガンを羽織っている・・・まあ、普通だわ・・・。

 家の中も当然、調査される。 
 不審なことがないかどうか、肉体だけでなく、私の生活そのものが全て審問されるようなものである、というわけで、この家の中のことも考える。
 ・・・洗い物はたった今済ませたし、ゴミも処理されている・・・まずまずだわ。

 そして、自殺でない以上、他殺説も発生する。物取りが無いと解ったなら、最も身近な人間はあれこれ問われるだろう、つまり、チェリーなどは、どこで何をしていたか、質問攻めに合い、私の死を悲しむ間もなく、忙しい時間を経験するはずだ・・・不愉快極まるわ。

 そういう意味で、今、ここで、死ぬわけにはいかない。
 どうしても、調子を戻し、まずはお風呂に入るべきであろう。

 一時間くらいだろうか?
 私は動けなかった。が、だんだんと体温が上がってくることが解り始め、そっと起き上がった。
 鏡を見た。真っ青な顔をしている・・・ああ・・・blue blood・・・bloom, bloom・・・と、言い聞かせる。

 再び床の上に戻り、天井に、YES。

 様子をみて、ぬるいお湯に浸かった。

 私は、長い間、白い夜着を愛用している。
 これは、そもそも、眠りの浅い自分に、「死者のごとくよく眠れるように」という欲求と、好みがそうさせているのだが、土曜ばかりは、白い夜着をあえて避けた。

 こういう行為は、負けだと解っているが、屍に今なる必要も、見当たらない。
 よって、薄いblueの部屋着で眠ることにした。

 しかし、こうして考えると、人の死とは、周囲に対しては厄介なものなのである。
 ひとりで生きるならば、誰かに最期を看取られることがない可能性も出てくる。
 だが、普段、家族や隣人に囲まれているならば、何かのために生きる、とか、誰かのために生きている、と感じていることがほとんどで、出来る限り死とは無縁に暮らし、また、死が孤独の味だとは想定したくないはずであるし、想定することが、あまり仕合わせとも思えない。

 が、死とは、あくまで、ひとり、なのである。
 近松ではないが、心中したとて、それはこの世にあった時間の意識の中。
 旅立った後も手に手を取り合っていられるかどうかは、その「道」を歩いた者にしか、解らない。
 解らないことは、厄介である、面倒である。

 日曜日、用心して安静にしていたが、ベッドにずっといるのも辟易する。
 私は入院というもの、本当に、向かない性格だろう。好んで眠るならともかく、特定の場所で仕方なく横たわらせられていることに容易に我慢ができない質かもしれない。誰もかまってくれなくていいが、どうせ横たわっていなければならないなら、せめて自分の家を希望するが、自分の寝室でも、やたらと意気消沈する。その辺は、出来るなら贅沢でありたいが・・・末期は仕方あるまい、と叱咤されそうね・・・しかし、死は、セレモニーと言うなら、贅沢な花束になったつもりで、永遠の安らぎと行きたい、床にコトンと置かれるとしても、である。
 なので、うろうろ動きながら、様子を見る。幸い、食欲はある。冷蔵庫には納豆、厚揚げ、チーズ、ハム、タマゴ、レタス・・・こういう時はお肉に限ると断言したいが、自分でも情けない程、咀嚼のエネルギーにやや欠ける。よって、目眩無しを察知した瞬間、恐る恐るハンドルを握り、車で出かける。運転が怖いなどと言ってたまるか、このロマンボイルドな私が・・・そうよ、柔らかいソーセージなら、噛めるだろう・・・こういう時は、ソーセージとキャベツである。で、勿論、ビールもいただくわ。

 食とお酒が求められる私なのだ、まだまだ生きられる。
 初夏に降る雪などと、センチなことを考えたから、脈拍が薄くなったのかしら?
 そのセンチは、悪くはないが、ロマンボイルドな私としては、生きるということは、フィールドを走るようなもので、ヤワではいられないと願いたい。
 たとえ、巨人の引力がこの地上に働いていたとしても。
 願い下げは、本当の意味での人生という場所を知らないで生きる愚か者である。
 私は愚かだが、まだ、救いはあるだろう。

 と、肉食植物の私は、ひとり頷く。


 追記ですが、先週の土曜日の"Going a-Maying"のことを先日、RisaのMySpaceのpageのblogにもpicを少々載せてアップしてみました。こちらでは、主に英文で綴ってありますが、お時間のある方は覗いてみてくださいませ。


 明日は、いいかげん、晴れてもいい頃でしょう。
 上昇するのは、肉体ではなく、精神と、ありたい。


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