<連載><ブライアン><3>

 昨日ご紹介させていただいた連載のサイト『裸言』、私は毎水曜ゲストパーソナリティーとして担当させていただいております。
 書き出しとしてはやや急いた気配のある連載第一話だったかもしれないな。
 ラジオ・ドラマ風に、ある程度の速度があるといい、とダダダっと綴ったが(Slyを登場させたかったの、どうしても)、さて、この後、どのように運ぶか、自ら興味深く観察しながら、綴らせていただきますわね。
 私はもはや、原稿用紙サイズで文章を書いていない。例えば、これを綴るときは(誤って画面が消えると泡になるので)通常のテキストエディットを使用しているが、その他の原稿を綴る時には、著書を編集する際に使った(43×17)という731文字のページ設定で計算している。これは、あの『YES』という本の1ページ内に入った文字数であり、製本の際、なかなかよい具合に仕上がるという文字数でもあるので、それ以来、好んで利用しているのだが、この設定で文章を埋めていくと、原稿用紙一枚の中に含まれるべき文字がとても少なく感じられる。
 で、おい、今ここまでで一体何文字だ? と、言われれば、原稿用紙一枚以上に達している。言いたいことの多い奴は、損だな、ベラベラし過ぎる。が、blogというものに慣れた人の目は、空間、改行のある読みやすさを求めるかもしれない。で、そこで、更に、が、が、続くわ(あしからず)、本を作るなら、改行を減らし、スペースで時間のタイミングを計るような「味」で、間を持たせることはできないということ。
 実に私は本の推敲作業をする際、改行を悉く減らしてきた。減らしながらも、そこに、ひと呼吸を持たせるための自分の息づかい、質感を通す必要がある。その辺り、気を遣うものなのである。作品だからね、と、口元歪めながら可愛がり、流れを作るという具合である。
 正直、私は改行の少ない人の文章を読むことが、好きだ、文章の長さや短さにかかわらず、ましてや、それが書籍であるという理由だけでなく、このようなweb上(場)でも。
 というのも、その文章に、息せき切っている魅力を感じるので。つまり、無駄に時間と空間を使うようなことはしないと、その人の文面(言葉/文字の姿)が浮き立って視えるからである。
 本当に忙しく、時を惜しむようにして生き、仕事をしていたら、blogなど、しょっちゅう綴っている時間など、ないかもしれないではないか。それでも、記す必要があるということは、義務であったり日課であったり、また、好んでいるはずで、無駄にスペースなど開けて喜んでいる場合ではないだろう。そこに「気持ち」って奴を感じるのである。
 私のことを、「閑人」だからあんなに書いていると想像していらっしゃる人もあったようだが、どうしてどうして、私はこんなことを始めてから、体重が5キロも減っている。別に身を削っているとは言わないが、遊んで暮らしていると思われても、不愉快だった。忙しぶる人に限って、私のこの長い文章を笑っていたようだが、馬鹿野郎、首輪は、無いわ、あたしには。して、世間を垣間みると、忙しい人ほど、どうもマメに更新しているのである。
 おっと、大分、物言いが乱れてきたな。

 ここ最近では珍しく、430ページほど、或る小説を読んだ。読み終えた。
 私は日々、枕元にbookという暮らしを子供の頃からつづけていて、習慣になっているが、一行で眠ることもある。しかも、常に数冊の本を平行して読むことが多いので、どれもこれもなかなか終わりに辿り着けない。辿り着けないだけならいいのだが、頓挫することも頻繁である。頓挫すると、では時が経てば、そこまでの内容を忘れるか、と問われれば、これが、案外よく記憶していたりするので、何年も読み続け、終わりに到達しない本もたくさんある。本は、人と同様、会いたい時に会いに行けばいいのである。待っていてくれるものは、待っていてくれるだろう。
 話はその430ページに戻るが、上下で800ページを越える長編である。ほぼ3日で読み終えたが、私としては、珍しい、珍しいが、それだけ面白かったということで、これは日本の、現代生きている作家の作品だが、私は実は、現代を生きている日本の小説家の作品をあまり読まなくなって久しい。それでも、私はこの作家の或る作品群だけは、必ずここ数年、読んでいる。村上春樹氏ではない。言ってしまえば、私は村上春樹という人の作品、『風の歌を聴け』を友人からいただいたおかげで、何となく昔読んだだけである。チェリーは何冊か読んでいるらしいが、私は覗いたことがある程度、評判は知っている。愛されていることもよく知っている。時間があれば、読んでみたい。長編を。しかし、あの『ノルウェイの森』は、読まないかもしれない、この年になると、もはや・・・いや、病院に入院したら、読むかも知れない。そう、病気の時に、良い本というのも、あるだろう。私の場合、冥土の土産は、漱石の『猫』だろうが。あれを読めば、生まれ変わるような気さえする、あな、おそろしや。
 私の読書とは、何なのか? 時間を使う娯楽かもしれない。音楽、CD一枚、長くても『第九』サイズ、映画、前半後半のある『風と共に』や『ロレンス』は例外としても、2時間半。読書は、道のりである。
 だが、音楽も映画も、それを作品として世に送り出すまで、長い時間がかかるのである。鑑賞される人は、その創作者、製作者の労を想像してみてくださいね。
 と、優し気な言葉になったが、その例の800数十ページの作者は、それを完成させるまで、3年かけたという。
 800枚で3年ということは、1年で260ぺージ以上という割り算になる。正確な割り算でないが、私はそろばんができないので、やたらめったらaboutである。が、スーパーで買い物をする時だけはmarvelousな金銭の処理をする。何故だろう?

 さあ、ここまでで、原稿用紙、何枚だ?
 しーらないっ!
 時は流れるのだ。
 
 午前3時が近くなりました。

 そう、もうすぐ、ブライアン・ジョーンズの命日。
 昨年の今頃、私は、『ジュジュカ』/「モロッコへ行きたい熱」で仕方が無かったのだけれど、今年は友人から送っていただいたブライアンの映画のDVDを観ながら、過ごしましょう。


 昨日のダイアリーに書いた、3連符。
 この3連とは、フリーメイソンの挨拶で、モーツァルトベートーヴェンも、その他、たくさんの芸術家は、そこに所属していた事実がある。
 3連、または、3が何か目立つ古のモノを視たら、そこには、メイソン印が潜んでいるやもしれないわね。
 しかし、それも、もはや、19世紀までが最盛期。
 私は勿論、メイソンでは、ありません。
 で、ブライアン・ジョーンスが亡くなったのは、1969年7月3日。
 

 しかし、今年の梅雨は、どんよりしている。今日など、ちょっと肌寒いし、動けば蒸すし。
 思えば、2000年の今頃はとても暑い日がつづいていた。ちょうど、チェリーが6月末からお盆頃までの一ヶ月半、西洋ツアーで不在だった年だったので、よく憶えているのだけれど、7月に入ってからは、軒並み30度を越えて、梅雨さえはっきりしない陽気だった。
 温暖化が叫ばれることが顕著になった21世紀だが、或る学者筋によれば、もはや地球は温暖化の時期を過ぎ、寒冷化に向かいつつある、などという記事を少し前に読んだが、どんなものだろうか?
 12年前に亡くなった祖父は生前、「昔はもっと寒く、雪も多かった」と、言っていたが、3世代の過ぎ行く流れで、地球の具合も変化するのだろう。

 2000年から数えて、3×3=9。
 今年、2009年。

 3・・・か・・・私のラッキーなナンバーなのですがね。


 こざっぱりと、改行して、終わる。


 おやすみなさい。



 ..* Risa *¨