irresponsible person just i am

 8月1日、まず、洗濯機のトラブルに慌ただく始まる。給水継手とかいう部分の様子が悪くなり、水が漏れたというわけである。全自動洗濯機というのは、洗濯物を入れれば後は勝手にやってくれるが、たった給水のノズルがイカレタだけで、洗濯機能がつづかない。ただの電気洗濯機だったら、ホースを繋いでその後もいちいち段取りに合わせて人間が立ち会うという手間こそあったものだが、洗濯機の役割は果たしていた。それを思うと、全自動というのは、些か不便である。
 だいたい家電というものは、ほぼ10年でどこか壊れる。運が悪ければ保証期限内に故障するケースもある。安全に使用出来る期間を明記することなど義務づけられている昨今だが、それは裏を返せば、期限内に買い替えろ、と呼んでいるようなものにも置き換える事ができる。近頃の家電、弱くないか? 昔(30年以上前)の家電は丈夫だった。私の実家のエアコンなど、いや、当時はクーラーと呼んだが、1972年頃に購入したHの製品だが、30年以上平気で冷たい風を送っていた。同じ頃、このクーラーにつづいて購入した電子レンジも30年近く日々当たり前のように動いていた。当時はいちいち耐熱容器を使わなければいけないなどと言われ、電子レンジを買えば必ず一緒に耐熱容器を幾つか購入するような取引めいたことも上乗せされたものだったが、それも、30年故障一つないならあっぱれである。
 どうせ機械は、いつかは壊れるのだ。そうなると、この先、生きる間(長生きすれば)、家中の家電を全て買い替える必要があるだろう。エアコンが壊れれば、DVDが壊れれば、TVが壊れれば・・・そしてお風呂の装置や換気扇も壊れるはずだ。
 そうなると、いかほどの出費になるか?
 それを思うと、私など、切実に必要でないものは、要らない、ということにしたくなりかねない。


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 実際、我が家など、ほとんどTVを見ない。見ないとそれで平気なのである。では、DVDはどうか? 昔はそんなもの、なかった。VIDEOでさえなかった頃は、人々はお金を払って映画館に行った。映画を見るお金がなければ諦めることになる。見る事はステキだが、しかし、今、生きていてそこに見える現実もまた、面白く興味深い。近所の子供が遊んでいる姿を見るだけで、それが現実である以上、どのような作り物よりもリアルであるし、家族の会話や日々の営みの中の人間的な接触の方がよほど心に触れることであるはずだ、良きにせよ悪きにせよ。
 要するに、機械によって動かされるのではなく、本来自分が動くのが当たり前なわけで、それをこの全自動洗濯機のアクシデントは私に教えてくれた。当てにはするが、壊れるからな・・・手で洗えばいいじゃない。しかし、それは今となっては手間に感じられる・・・だが、昔の女たちは皆、それをやった・・・手間と感じたら、負けである。文明の奴隷となって、ああ、素晴しき快適、などとうぬぼれている場合ではない。手だぜ、足だぜ。そう思え。

 そのくせ、こうしてコンピューターに頼って生きている私なのである。
 手書きだったら、ペンダコが出来る。紙を無駄にしたくなく、消すのが厄介なら、できるだけ消さないようにと考えているだけで、先を綴るために時間を使う。


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 時間を使う・・・そうよ、その時間を短縮するために、洗濯機は開発され、コンピューターも日常化した。主婦は今日、ネットショッピングを楽しむだろう。わざわざデパートに行かずとも、服もアクセサリーもチケットも居ながら買える、電車賃、浮くだろう。

 が、家事仕事を馬鹿にしてはいけない、つまり、これは場合によっては只働きに近い状況があり、それは今日も変わらない。朝食の準備に始まり、その後片付け。そして、洗濯し・・・干し、取り込む・・・これはたった3つのパターンであるが、時間帯に縛られる(洗濯のメニューで最も溜息がでるのは、乾いたものをたたみ、それぞれをそれぞれの場所に仕舞う時である、後始末的なこの単純作業は比較的夕方が近い時刻と相まって時に虚しいことさえある)。その他、お風呂洗い、季節ごとの窓拭き、カーテンを洗う、観葉植物など育てるなら、その水やり、お布団干し、玄関先を履く、忘れてならない家の中の掃除は勿論、主婦(夫)としての仕事というもの、果てしない。
 日々の食事のための買い物も忘れる訳にはいかない、買い物はいいが、効果的な献立を考慮し、如何にヤリクルか(やりくりとは私は言わない、もはや)さえ、頭を使う、冷蔵庫の中身をサッと思い浮かべ、その日のメニューを組み立てる、小利口にやらないと無駄なものを買うので、それこそ、電卓並みに処理する、スーパーからははやく帰りたいのでグズグズしない、スーパーだけで澄ませてもよいが、近頃は経済的でエコで良質な食材を提供する小売店があると知れば、それらを上手に巡回して食品を買う。夕方になればキッチンである。慣れているとはいっても、時にはノラナイ日だってあるさ、でも、あたしがやらなければ、誰がやる?


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 ところで、効率よく家事を行える時代になって、女も外に働きに出る事ができるようになった。では、その埋め合わせは何のためか、というと、次の快適を望むためだったりしかねない。我が家には子供はいないが、夫婦共働きだったとして、女が稼げばその分生活は豊かになり、子供の教育費を補い、その他、お金の使い道も選択肢が増える。幾つかの保険に入ったり、老後の蓄えもできるのだろう。

 いいじゃないか・・・お金が使える。
 いいじゃないか・・・時間も使える。
 で、使っているだろうか? 自分のために・・・そこが問題なのである。
 
 かつて私が毎日のように外で働いていた時期があったが、その頃、私はお金があったが、自分のための時間があったとも言えないのである。
 時間がないと言う人も多い、それと同じように、今の時代、お金がないと言う人も多い。
 お金があって、時間がないのも、貧しいのである。
 そして、この21世紀、両方を失いそうな日本という国も、辛いだろう。

 優しさを考えよう、こういう時こそ。


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 それでも、世の中には、それをより優れた方法で成している人もいるのだ。
 見習いたいが、まだ、見習えない。いや、本当に、見習いたいのだが、何かが上手くいくと、何かを失っている。プラマイ-ZEROになって、ボールが返ってくる・・・それも、速度のはやいフォーク・ボールだ。バッターRisaは空ぶる。ナックルで空ぶるよりはマシと思い直し、もう一度構える。求めるのは、奴=ピッチャーが「ほらよっ!」とばかりに投げたはずのストライクを想定したストレートが、相手、こちらの捨て身を嘲笑したおかげで、その開いてしまった身体から投げられた狙いが甘く入ったカーヴぎみの球である。
 打つわ!
  
 しかし、たかが洗濯機のノズルごときでムキになるのも阿呆らしい。よって、ノズルを交換すればいいだけのこと。そして、ムキになるのは、この今の我が家の洗濯機が完全にオシャカになった時でも遅くはない。


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 そこそこ生きて来て、世間にはそう悪い奴はいないと思っている。
 あ、だけど、一度だけ、あったな・・・遇った・・・そういう面構えの人間を、私は電車の中で見た、感じた。そいつの目は、私を一瞬見たのだが、ゾッとするような目つきだった。あれは、人を殺めたか、もしくは、殺めるようなことをしたことがある目だ、と、何故か直感した。勿論、私は何もされはしない、ただ山手線に乗り合わせただけだが、あの目ほど、恐ろしい「目」を私は知らなかった。知らずにいたかったとも思ったが、また、何をしてきた人間か、知りたいとも思った。殺気、である。

 殺気・・・そんなもの、どこから生じ、何に向け、人はそれを察知するか?
 恐らく、自分自身に対して感じる喪失感を埋めるために刃を他者へ向けることにより、果たそうとするのが殺意であろう。
 そしてその殺意とは、その個人の恐怖から生まれ、その恐怖の肥大した形が潜む場所が殺気という池となり、防御、或いは、攻撃の形となり、人間の表面に出ることになるのだろう。
 無念の肥溜めのような・・・修羅がある・・・嵌まっては、いけない。

 幸い、私はその殺気の「目」・・・あの赤黄色い濁った、疑い深く、どこにも笑顔の入り込む隙間のない、ひとつの顔というものを見たおかげで・・・邪鬼まで、人間的なものにすら感じられるようになった・・・これは、20世紀の終わる頃の夜のこと・・・新宿駅にて、であった。


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 そんな私は今日、由比ケ浜には向かえず、しかし、新たに『茫々亭』と名前を改めたかつてのMARUへ夕刻、徒で出かけた。近隣の遊園地の花火が週末ごとに行われるこの季節。蝉の声も遠くに感じられる我が街である。
『茫々亭』は宅地にある。足が近づけば、そこから何気に聴こえてくる人たちの話し声。オーナーの三島氏の自宅内の離宮を改装して造られた『MARU-茫』は、夏は解放的にして、冬は囲炉裏など囲むスペースもある快適な空間となっている。知る人、知らぬ人、様々であるが、どの人も皆平和で和やかであり、面白おかしく時が過ぎていった。軽くやり、自家製の薫製の品々、ゴーヤ・チャンプルー、マリネ、自家製ベーコンでつくるチャーハンなどいただき、楽しい夜をしばし過ごし、再びのんびり徒で帰宅する。
 岩崎君、ありがとう。

 その後、酔いも醒めた25時、チェリーを駅まで迎えにいく。潮風に当たった彼は、少し疲れた顔をしていたが、帰宅して、サッポロ一番、食べていた。

 私はこうして、うつらつらつら、紙を無駄にすることもなくダイアリーを綴りながらビールを呑んでいる。
 いかめしいことを書く私だが、実は、とても新しい物好きなのである。
 いかめしい顔をしていることもある私だが、そっちのけで、めっぽう、いい加減な私である。
 はなはだしく戯言を描く私だが、な私である。
 はなはだしく垂れ流すが、本当に大切にしているものは我が胸だけに仕舞い込む私である。
 その仕舞っているものを抱きしめ過ぎると、少々、苦しくもあり、ケチもつけたくなる。
 情には厚いが・・・


 全自動洗濯機が教えてくれたこと。

 
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 8月とは、Augustus CaesarおよびJohn Barleycornを愛でる月なのだ。


 どうせ奴隷になるなら、愛するものの奴隷でありたい。



 そして、優しい友だちのために。



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