どこにも属さない世界



 




 これは私が10歳の時に初めて履いたトウシューズ。そしてこの靴の思い出は私の著書『YES』の中にも綴られている。
 日立市"詩穂音"において「21世紀騎手とvoix du soir〜桜井季早との共有」と名付けられたPainter Kuro氏との共有に向けて、今宵は久しぶりに著書からの文章をこちらにあげさせていただきたく。メモによると、どうやら、この文を綴ったのは2007年の2月10日のことだったようだ。




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 先のことばかり見ようとしていて、といっても、それはここ数日のことだが、少々疲れているだろうか? 空模様はいい具合に曇りがちで、しっとりと穏やかな日である。強烈な光など、どこにも求めたくならない安寧の風景。密かに「微光」などという言葉を小さく呟きたくなるような庭先。どこにも属さない時間を受け入れたくなるような空気。
 昼下がり、私は部屋々々の窓を開け、掃除を始めた。階下から二階へ、音楽室を済ませ、最後に寝室へ。その寝室を掃除していると、何かがじっと私を見据えているような気配を覚えた。
 それは、白い壁に銀色のピンで留めてある靴である。私が少女時代に最初に履いたトウシューズである。小さい靴である。このトウを、バレエを習い始めて初めて履くことを許されたのが、一九七三年のことだった。
 私は掃除機のスイッチを切り、その靴を壁からはずし、ベッドの上に腰を下ろして、しばし見入っていた。硬い爪先の部分をコンコンと叩いてみる。かつては綺麗なピンク色の絹に覆われていたこのトウシューズも、色褪せ、所々に茶色いシミなども目立つ。
 このトウシューズというのは、これを履いて踊る前に、まず、この靴の裏を柔らかく曲がるようにしてあげる必要がある。靴の裏は硬い革張りである。子供の力では到底無理。
 十歳の私のために、その作業をしてくれたのは父だった。柔らかくする部分も、その加減も、適切でなければいけない。土踏まずより少し指に近いあたりを重点に、そして、あまり柔らかくしすぎてしまうと、靴を履いて爪先で立った時、バランスがとれなくなってしまう。台無しである。父は、上手だった。少しずつ少しずつ靴を曲げながら、私に履かせ、様子をみてくれた。
 当時の私は、バレエに夢中で、暇さえあれば、家の中でも踊っていた。稽古に行って踊るだけでは満足できず、洋室のスペースを利用して踊る。すると、母は、床が傷つくから程々にしてくれと言う。禁じられても、禁じられても、私は母の言葉に応じなかった。この床は、濃い茶と薄茶の寄木模様で、母は気に入っていたのだ。
 公演前に、もうこの最初の靴は、随分汚れてしまった。だが、公演があるからといって、わざわざ新品を用意しようとも思わなかった。贅沢なことだと思ったし、この薄汚れている靴の姿が、自分の稽古の成果なのだとさえ思った。そして、翌年の公演の前には、再び新しい靴を準備した。そうなのだ、子供の足は、一年経てば、大きくなったりするものなのだ。この年は、公演前に靴を汚さないために、古くなった靴下を靴の上から履いて稽古したものだった。
 公演の当日は朝から慌ただしいが、楽しくて仕方が無い。美容院で髪を結ってもらう。頭の真ん中でしっかりと分けられ、耳の上辺りにかかるような緩いカーヴにセットされ纏められた髪型である。鏡の中の自分を見て、突然大人びたような気持ちになる。七五三のアップの髪型とは違う、西洋風な纏め方の髪。澄ました顔をしてみる。心の準備が整ったような感じがする。
 続いてメイクが始まる。ややつり上がりぎみに目の周りにしっかり縁取られる黒いアイ・ライン、ブルーのアイ・シャドーは蝶のよう、赤いルージュ……これらで変装すると、小さなバレエ・ダンサーたちは、皆、ただの少女ではなくなる。今日は特別な日なのだと胸は高鳴る。
 チュチュを身につける前に軽い食事をする。それはたいていサンドウィッチだったりして、口のまわりに気を配りながら食べなくてはいけないのだけれど、そこは少女たち、数人集まれば、おしゃべりに笑い声、メイクさんに注意されたりするわ。
 やがてスパンコールが散りばめられたチュチュを着て、靴を履く。少女だけれど、念入りに靴のリボンを結ぶ。痛くないように、そして、脱げちゃったりしないように。松脂を靴先に少しつけて……この時、調子に乗って、必ずこの松脂をつけすぎる子がいるのね、そういう子は、トウにブレーキがかかってしまって、上手く回れなかったりするの、絶対、ひとりくらい、いるのね。でも、私はそのタイプではなかった。だって、せっかくの舞台なのですもの、台無しになど、したくない。
 ベッドに腰を下ろし、傾いていく淡い日差しの中で私が見たものは、幾つもの子供時代の記憶の中から選び出された一九七三年のページだった。色の褪せたシルクに覆われた靴が連れて来てくれた、喜びの思い出、夢中の思い出。
 しかしこれは、今や<どこにも属さない時間>となって、私の心の裡に仕舞われているものである。が、確かに、この<時>を、私は、生きた。


 夜、<どこにも属さない時間>という言葉が、今日の私の一体どこから発せられたものだったのか気になってしまい、心当たりを探って、数冊の書籍を書棚から取り出してみる。
 そしてたどり着いたのは、ガストン・バシュラールの本だった。<どこにも属さない時間>、これは私が私の裡で取り上げた言葉だが、バシュラールはこの著の中で、<名称を持たない時間>という言葉を使ってた。
 バシュラールはこのように著す。
「名称を持たない時間の中で、世界はあるがままの自己を自信を持って認める。だから、夢見る魂とは孤独のひとつの意識である」と。また、「もしも私たちの世界の中で、私たちが郷愁を抱くこともなく、熱烈に生き、再び生きることができるなら、私たちの内面はどんなに安定し、強固になったことだろう」
 安定し、強固になったとて、そこに、どれだけの喜びや感動が生まれるのか、正直、今の私には、解らない。このガストン・バシュラールというフランスの思想家も、そのようなことを理解することを奨励しようとは考えていなかったのではないかしら。何故なら、バシュラールは、ヴァンサン・ユィドブロという詩人のこのような文章を引用している。


  私の幼年時代のなかでアルコールのように燃える一時期が生まれる
  私は夜の八方に通じる道の上に座っていた
  私は星たちのおしゃべりを聞いていた
  そして木のおしゃべりも聞いていた
  今では無関心が私の魂の夕暮れを雪で覆っている


 名称とは、何だろう? どこかに属すことが、何だろう? このような私ではあるが、それでも「今では無関心が私の魂の夕暮れを雪で覆っている」などという哀しい言葉が、口をついて出ることは、今のところ、無い。 
 灰色がかった雲と向かい合い、私が手の中に包んでいたのは十歳の少女が大切にした靴。
 その靴を、再び銀色のピンで壁に留めた私は、両手を胸の前で合わせ、ゆっくり開いた。
 掌に、幻影が浮かびはしないだろうか? 淡いイマージュが、見えはしないかしら?
 見えるとしたら、それは、マリオネットのように木に吊るされた、宙ぶらりんな少女の澄ました表情かもしれないな。 



   著書『YES』より




 * 


 そして今日は過去に綴った数々の記録の中からの幾つかを読み返していた。
 こんなことはほとんどしない私である。
 著書の中に抜粋されたものは本となり、存在するが、私のノートやこのコンピューターの中に保存されている多くの文章は私の過去のblogにこそ残されているものもあるが、それらはここ数年、私の裡ではずっと銀河系の外のようであった。
 が、それらの失われたリストも11月14日からの"詩穂音"に展示されることになりそうで、私としては恥ずかしい反面、それをあたかも自然な表現の一部として表すことを促してくださったKuro氏のリベラルな発想に感謝したい。氏は私の、数少ない、<共犯者>の、おひとりです。
 ありがとうございます。




「要らないものは捨てていけ」


 そう言った父の言葉を胸に、これまで書いてきた私であったかもしれなかった。私が面白がって書いていると思ってくれていた人たちもいただろう。それらは記憶とともに今日を生きた記録であり、別の事柄へのスケッチでもあったのだ。
 が、一日、いちにち、思った時に、或は眠る前に、遺書を書いていたようであったかもしれない。


 しかし、そうやって書いていた私に、かつて、
「…で、何がしたいの?」
 と、ゾッとするような薄気味悪い微笑をこめた言葉を"余所"から私を眺めて送った人がいた記憶がある。私はその時、その人に言いたかった言葉があった。それは、
「あなたのようにクライアントにほがらかに軽々と頭を下げることに慣れ、それでいて知人の間では奇妙に歌舞いているふりをしながら、商業美術の世界にしがみついてきた人には、私の行動は愚か者そのものでしかないでしょう」
 が、私は勿論、知人であるその人にそのようなお返事はしなかった。
「何でしょうね?」
 私の応えは、それでよかった。女を困らせるような質問をする男には、私は関心はないのでね。

 

 


 




 またもう一枚の写真は、私の父の書斎に並んでいた古い世界文学全集の中から以前、私が引っこ抜いてきた書物の中のひとつである。旧字体なのだが、そのような活字を読むのもまた、私の読書テンポにかなうがごとき、しばし、佳き時間なのである。






 Risa :*)