11月22日、カルメン・マキさんのライヴにて



 


 11月22日のカルメン・マキさんのライヴ、それは<美しいライヴ>だった。そしてこの一年の間に、私がマキさんに書かせていただいた『デラシネ』、『望みのない恋』の2曲が、あのようにマキさんに歌われる事を、私は願っていた。あのように、というのは、聴きに行った方々にとっては十分にお伝わりのはず。
 マキさんは『望みのない恋』について、難しい曲だとおっしゃりながらも、「絶品だ!」と褒めてくださっていた。そうして、22日、私はマキさんがそれらの曲をステージで歌う姿を拝見して心から、感動した。私が女性が歌うあれほど<美しいライヴ>を見たのは、1990年、芝郵便貯金ホールで見たマリアンヌ・フェイスフル以来かもしれない。
 この日の楽器奏者たちは、ギターに桜井芳樹氏、ベースに瀬尾高志氏。お二人の歌心たっぷりの演奏は、マキさんを引き立て、聴く人々を魅了したと確信する。
 そうしてベースの瀬尾さんからは、「『望みのない恋』は後世に残る名曲。デモを聴いた時、西洋の有名な曲にロルカの詩をのせたのではないかと思った」という感想さえいただき、まことに嬉しかった。

 
 マキさんの創作された詩である『デラシネ』も、ガルシア・ロルカの詩である『望みのない恋』も、詩をいただいた段階で何度も何度も文章を読み、その言葉たちから生まれてくる私の印象を、光景を、物語を想像する。そうしているうちに、冒頭のフレーズが、或は先に、サビのフレーズが私の心に降りてくる。
 そうよ…『望みのない恋』を私が書いたのは、6月半ばの事だった。私はその夜、ピアノに向かっての作曲の作業を終え、或る印象を頭の中に描いたものだった。そのことは、以前、どこかに綴ったが、それを、その私の散文的な詩を今、再び、以下に記させていただきたい。




   *


 *6と9のためのワルツ* -私はこのような印象で音楽を作り、寝た-  




 もはや誰も私を理解しない。それを知った時、女は3匹の蛇を見た。
 1匹目は大きな蛇で、人目を避けながらも塀際を大きく波打つように這っていた。
 2匹目は産まれて間もない蛇で、恐れのままに逃げ去っていった。
 3匹目は成長半ばで死んでしまい、群がる黒い蟻たちにガリバーのように捕われていた。


 6と9のためのワルツ。
 6と9は女の目の前で踊っている。
 それはただの数字である。


 しかしそれらには色がある。
 紫と茶色、濃いアメジストの紫と、チョコレートの茶色。
 女の見る夕暮れのカーテンの前で。


 そしてそこには死臭がある。
 テーブルの上の熟れたプラムが何かの拍子に転がり、落ち、
 床の上に潰れた匂いだ。


 その床は、谷底である。もう、戻れない。
 足を焼く熱い大地に漂うような、雨が濡らした夜の樹々から漂うような、
 どうしようもない甘美な死臭だ。


 女は6と9のワルツを見つめながら高く笑った。
 今ならば、それは甘美な死臭だ。
 だが時を過ぎれば、それは朽ちた"死の舞踏"でしかない。


 誰もがそれを知っている。
 だが、女の事を知っている者は、誰もいない。
 夏の訪れは、女をクチナシの花と化す。




 ~by Risa Sakurai ©




   *


 私にとって創作は、アカデミックな部分に捕われず、我が儘に行える想像の世界である反面、時として、仕事としてその作業が他者に向けられて行われる時、私は自分のアイデアを信じる必要があり、それを最大限に発揮し、最小限に纏めることを意識する。
 もっと、表したくなる事があるが、それを如何に控え、如何にストイックに行くか、である。つまり無駄を省き最大を表現する事こそ、創作を仕事として世に出す醍醐味という事なのだろう。


 また、緊張の場面というどうしようもない状況を私はこれでも心得ている。
 それが、自分の事なら、私の<生>として、反省し、時間の許す限り繰り返す事も可能だ。
 しかし、その緊張を誰かに見る場合、それは、別の視点で私の心を揺さぶる。
 ましてや、カルメン・マキさんという長い長いキャリアを持つ素晴らしいシンガーが、私が書いた曲をあれほどまで、こんつめて、真摯に…それは神経質とも思えるほどに時間をかけて受け止めてくださりながら表現してくださったことに、私は驚きとともに恐れさえ感じた。


 そういう意味において、ここで、私が敬愛するひとりのフランスの女性ピアニストの書いた文章を引用したい。

 


「音楽は女の香水のように強い暗示力を持ち、呪いをかけさえする。女の香りはその魂の魔法の吐息だ。だから女の音楽家は或る意味で、甦ったセイレン、火刑台の上で永遠に焼かれ続ける魔女、自分の魔力、つまり、誘惑の力を取り戻した魔女になる…」~H.G




 この引用の先は、このピアニストが感じる<男>という性へのアクションを意識しながらの文章になる気配があるので、先は省く。


 が、女という存在が人間として表現する場合、策略がある、ということだけは、言っておこう。
 その女という存在が伝説の場面ではなく、生きた表現者となる場合、魔女、或は、セイレン…となる。
 カルメン・マキさんという歌い手の世界、詩世界に海を感じるように。




 私という物が、それでもまだ、それほど愚かではないと自負できる唯一の砦として、私は、<詩-作-曲>をこれからも維持できるかもしれない。
 どこかでカテゴライズされなければ志を得られないと危ぶむ魂たちから、離れ、私を生きる事も、できるかもしれない。
 "くだらない"、と、今、時に、思う"…"から離脱するには、"pracrice"が求められ、それはそれほど容易いなものではないが、"practice"こそ、自由への扉であることは言うまでもない。
 が、それを最小限にとどめようとすると、間違いが起こる。
 日本のデモクラシーのようにな。
 そんなに、すぐに出来ることではない。
 "practice"に終わりはない。
 …私は、長閑に画策する。



 
 マキさんのライヴは、私に物語った。


 それは、それほど、容易いことではない。
 が、人生は素晴らしい。
 あなたが生きているなら、それを感じなさい。
 蜜と思え、海の塩と思え、焼かれると思え…


 私は、そういう、<女>の表現にずっと、餓えていた。
 私に栄養を与えてくれる、そういう、<女>の声に。


 私がマキさんと初めてお話をしたのはもはや10年近く前になる冬の吉祥寺の晩だったかと思う。"E.D.P.S/エディプス"のギタリストであり、画家でもあるTsunematsu Masatoshi氏もご一緒で、深夜遅くまで呑んで話した事を記憶している。
 あれから時が経ちながらも、尚、現在、こうして私を迎えてくださるカルメン・マキさんに深く感謝したい。


 この晩は、演出家で詩人である条田瑞穂(愛称:Joe/ジョーさん)さんともお会いし、たくさんお話した。
 ジョーさんは、"108"…という数字が表す、煩悩の数を打つ/撃つ詩の朗読をされつづけている方である。




「夜は、こばみ、来ようとはしない…」と、マキさんが、何かを噛み締めるように、確かめるように、淡く、しかし、呼吸を整え、セイレンと化しながら歌い始めた瞬間に私が感じた、<痙攣的な美>…
 その後に、『A Bird and A Flower』を聴く事ができたが、このライヴの選曲と曲順、一部と二部の構成の素晴らしさにも、感服した。




 picは、左から、条田瑞穂さん、カルメン・マキさん、私…Joe & Maki & Risa…
 マキさん曰く、「三人の魔女!」




 Risa Sakurai :*)