或る残念な記憶: 或は『間違いの喜劇/The Comedy of Errors』



     




 それは東日本大震災が起こる前の2011年の事だった。その頃、私は私のささやかなコンサートを下北沢のカフェで行う予定があった。そして当時、そんなお知らせをSNSや私のblogにも告知させていただいていたのだが、同様に私は私の著書『YES』についてのお知らせもさせていただいていた。というのも、私の著書はその下北沢のカフェにおいても委託販売させていただいていたのである。


 それより遡ること数ヶ月前、私は或るSNSのサイトにおいて、或るご夫人からフレンド・リクエストをいただいた。その方は私の友人の友人で、私の記事をふとした時に読み、私に興味を持ってくださり、リクエストをしてくださったのだ。彼女が私にリクエストしてくださる際に、とてもご丁寧なメッセージを添えてくださったことを私は憶えている。そして私は喜んでその方をお迎えさせていただいた次第である。当然、私はその方とお会いしたことはなかったのだが、彼女はよく私の近況にコメントしてくださったり、エールを送ってくださっていた。


 そうして、その2011年の1月あたりに、私が私のライヴの告知をさせていただいた時にも、彼女は私に、「Risaさん、あなたのコンサートに伺ってみたい。そしてあなたの著書を読んでみたい」と、おっしゃってくださっていた。私は嬉しかった。その方は若い方ではないが、日々東京都心にお出でになるようであったが、お住まいは神奈川県だったと記憶している。彼女のお住まいから彼女がよくお出でになる都心は便がよいが、下北沢となると、そこから少し西に下ることになる。東京は、地下鉄を含め、電車で移動をするという意味では恐らく世界一発達している都市だが、体力は必要である。そして彼女が決してお若くない事を思うと、夜に下北沢にお出でになり、ライヴがはねた後、ご自宅に戻られるのは、恐らく、深夜もよい時刻になるだろう、と思った。だから私は、「もしもお時間が許すのであれば、どうぞお出でください」と、お伝えした。その方のお気持ちだけで、私は十分、嬉しかったのだ。


 やがて、彼女から再びメッセージがあった。
「Risaさん、その晩に私が下北沢に向かうのは難しいかもしれません。でも、私はあなたのお書きになった本を読んでみたい」
 私は、感謝のお返事を彼女に送った。


 すると、数日後、それはまだ、2月になる前の或る1月の事だった。私は彼女から再びメッセージを受け取った。内容はとは、以下のようなものだった。


「Risaさん、私は今日、都内に出かける用事があり、その後、下北沢まで足を伸ばし、あなたがコンサートをなさる予定のカフェに行きました。そして、私は店主の方に、『桜井さんの作品を買いたいのですが』と言いました。すると、カフェの方は、『これです』と、おっしゃり、ひとつのCDを私に差し出しました。それはあなたの本ではありませんでした。が、私はそれを購入させていただきましたよ」


 そのメッセージをいただいた私は、正直、悄然とした。
 それは、確かに、私の作品=著書ではない。
 そうして、私は彼女がその日、下北沢のカフェで購入された"作品"が何かを想像できた。それは私の知る物だったからである。
 そう、それはそれで、佳かったのである。
 彼女がその日、購入し、帰宅した後に、その音楽を聴いてくださったとして、そのことは、私にとって嬉しいことである。
 が、それは、あくまで、私の作品ではなかったのである。


 カフェの主人は、「桜井さん」という名を彼女から耳にした時、彼が思い浮かべたのは私ではない、別の人の事だったのだ。そうして、彼女は店の主人にそれが私の作品かどうかを問う事もせず、そのCDを購入した。彼女は謙虚な性質を持ち合わせていらしたのであろうし、また、彼女は店主から勧められたCDに、私と何か関連のあるものだということを感じられたのかもしれない。いずれにせよ、これはとても日本人的な"気遣い"が生じさせる、一種の"曖昧"であり、そのような行為…つまり、求めている物と異なる物を購入しても、そこに疑問を持たず、寛容に対処するという行為…は、時に美徳のようにさえ見えるが、果たしてどうだろう。彼女がおいそれと購入したことは一見、"humble"であり、それを"ゆとり"と見ることもできなくはない。が、私は、そのような日本人の持つ奥ゆかしさを愛する反面、それをいぶかしくも思う者である。
 おそらく、カフェの店主は、その<間違い>に、今も、全く、気づいていないだろう。
 店主にとっては、彼がまず頭に浮かんだ「桜井さん」という存在は私ではない存在で、それは氏にとって当然な事だったのだという事で、落着がつく。
 誰も、過ちを犯してなどいない。
 ただ、それが、行き届かない認識、或は、行き違いというものが齎す現実でもあり、お互いの存在を深く確かめ合わないと誤る事もある<間違い>が生じるという事である。


 私は学ばせていただいた。
 しかし、これは、あくまで私とその方の間の事であり、彼女が私の著書を下北沢まで出かけて行って購入する事を求めたはずが、別の物を購入することになり、私は彼女に私の著書を届けられなかった、という、物語である。


 今日にあっても、その方についての情報は少ないが、それでも、彼女が敬虔なクリスチャンであるという事は以前に知らされた私は、今宵、10年程前に小樽を訪れた時に見つけた私のお気に入りの灯りをともしながら、この記憶を綴っている。


 私はその後、彼女と連絡を取る事はできなくなった。
 というのも、彼女は何かSNS上で予期せぬ問題が生じたようで、アカウントから消えたのだ。
 私はそれについて、よく知らない。
 が、せめて、あの時、彼女が上記に綴ったような<間違い>がないまま、私の作品を手にしていただけたら、と、思うと、それは私にとって、今も残念な思い出のひとつである。
 もしもこの後、彼女にどこかでお会いできることがあったら、幸いである。

 
 世の中は、時々、ややこしい。


 野村萬斎氏が謳うが如く。


 ややこしや〜、ややこしや。


 萬斎さんは、シェイクスピア原作の『間違いの喜劇/The Comedy of Errors』を見事に上演された。




 これは追記であるが、数日前、野村萬斎主演の『のぼうの城』をTVで観た。
 萬斎さんの演技を観ると、活き活きする私なのだ。

 


 Risa Sakurai / 桜井李早