遊離と愉しみ



  




 5月17日、良いお天気、それで午後から夕刻までずっとベランダで読書をしていた。5月らしい、安定した陽気は、人の心を安定させる。こういう5月が私は好きだ。
 私は冷たいお茶を傍らに、久しぶりに以前愛読したフランス人ピアニストの綴った手記を読んでいた。素晴らしい音楽家は、文章も素晴らしい。故、武満徹氏の文章も実に見事だったが、それはそのような人々は、感性が優れているばかりではなく、大変読書家だという事も理由なのだろう。それは佳い本をたくさん読んでいるという事だ。このフランス人のピアニストにおいても、彼女が子供時代から如何に名作と呼ばれる古の本たちを読み、彼女自身の礎としてきたかが伺える。
 読書=文章を読むという事は、他の事を鑑賞するよりも時間がかかる。その時間をかける事とは音楽家が練習に時間をかける事に似ている。そういう愉しみを知る人は、想像的にじっくりと物事を視る力を持つようになるのだろう。言葉のひとつひとつを追いかける事は、プラクティスであり、人間が言語を持った時から、"読む"という事と、"書く"という事は社会の中における伝達の術を果たすための最も大きな役割だった。今や文盲の人たちは少ないかもしれないが、一国において読み書きが行き渡った時代とは、人類の長い歴史において、そう遠い話ではない。100年前、文字が書けない日本人があったかもしれない。だが、『源氏物語』は世界最古の長編小説と言われて誤りではない。しかもその長い物語を書いたのは女性である。どこの国に、一千年前、堂々と創作する女性文学者があっただろう。遠くギリシャにはサッポーのような詩人はあったが、紀元になり、男性中心の社会の発達とともに、西洋では女性は表現者としての存在価値を求めることは出来ない時代がついジョルジュ・サンドの生きた19世紀まであったのだ。
 言葉を組み立てて行く事とは、作曲する事にも似ていて、それは個性なので、どのような表現の在り方があってもかまわないが、支離滅裂では完結しない。即興であっても、音楽においてはコードの進行があり、そこには通常、該当するスケールが伴う。音楽的な事を言えば、例えばスケール外の音が奏でられたとしても必ずしも誤りではないが、それが不快に人の耳に届けられる事があれば、時に誤りと解釈されても仕方がない。が、不協和音の面白さは特徴的、意図的に為されていればそれは完成された演奏/作品として妙技となる… 


 …私は何を言っているのか?
 まあ、どうでもいい。
 籐椅子をいっぱいに傾けて、日光浴をしながら、子供のように素直に読書を愉しみ、時折流れる頭上の空の雲たちに腕を伸ばしていただけの事だ。
 ただ、今日はとても満ち足りていたのだ。
 それは遊離する事、私の遊離。


 というのも、最近は晴れていても風が強い日が多く、確かに朝のうちは穏やかに、しかし、午後になると徐々に風が吹き始め、その風が南から来る暖かな風のこともあれば、昨日のように、風向きが変わり、夕刻は西風で、灰色の雲を伴っていたり、必ずしも穏やかとは言えない日が度々ある。私には、何故5月がこのような強風の日々を繰り返すようになったのか、ここのところ、不思議だったのだ。
 相変わらず、動いていない時には、ショールや、時にはカーディガンを羽織ったりしなければ身体が冷える今日この頃の私ではある。
 だが、今日は本当に気持ちの良い5月の一日だった。


 pic1は、16時を過ぎた頃の空…下の方に3つの顔が流れるようにして浮かんでいるように、見えないでも無い。




 



 pic2は、ヨーグルト・ソースでいただく26時のサンドウィッチとレッド・アイ




 追記: 遊離と言ってしかし、このような文章を27時頃に綴っていては、駄目だな。




 Risa :*)