5月23日 -カルメン・マキ & 桜井芳樹 + スーマー @ Soul玉Tokyo -



 




 佳い音楽とは風景を聴く人々に思い起させると、私はこれまでも書いてきたが、歌について言えば、それは聴く人々の心に物語を与える。
 カルメン・マキさんの歌がまさしくそれであり、彼女は私が最も尊敬する歌い手と言って過言ではない。佳い歌い手は他にもたくさんいる。だが、マキさんほど、私が惹き付けられる人は、ない。マキさんは、セイレーンだ。人の心を和らげるという関心を歌に求める人は多いかもしれないが、例えば私のような者にとって、音楽とは、歌とは、甘美なだけでなく、想念や情念が伴わなければ心動かされない。それは海のように、生命を産み出すものであり、マキさんとは、私にとってそのような存在だ。


 そんなマキさんに、私は『デラシネ』と『望みのない恋』という楽曲たちを提供させていただいたが、それら2曲は、この一年、半年の間に確実にマキさんの物として育っていてくれている。作曲家としての一面を持つ私は、当然、マキさんのために恥じない楽曲を創作したつもりだが、作品とは提供した時点で、自分の手を離れ、世界に飛び出す。そうして、飛び出した時に、その音楽が、歌が、人々に求められている事を見届ける事こそ、歓びだが、私はその大きな歓びを今日、体験している。このことについては、マキさんに感謝の気持ちで一杯であり、また、私が私の人生において、カルメン・マキという素晴らしい歌い手と共に仕事ができた事は、ああ、神という物がいるなら、或は、運命というものがあるなら、私はそれらを崇める。


 その、私にとって海のようなマキさんが、この晩歌った一つの歌があった。『Lilly was gone with window pane』…ああ、何て凄まじいのだろう! …聴き手としての私の心の海は波立ちはじめた…それは荒れた海だ…小さく治まることのできない、溢れ出す海の水が私の耳を覆う…それは一つの物語、遠く海を渡った女が堕ちていった様を表した歌だが、その旋律と歌の魂が痛々しいほど私の身体を駆け巡る…私の海は塩辛い血に染まり、それが私の血液だと私は知るが、それが生き物のように私の肉体を支配する。楽曲はそう…'70年代初頭の、例えばローラ・ニーロが全盛だった頃の熱狂に似た夜の世界だが、ここで夜の世界と私が書くと、単純に暗いイメージを持たれると困るのだが、音楽とは、明るい朝の目覚めのためにばかり在る物ではないのだからね。笑顔が欲しい奴は、あっちへ行ってくれ、今は。私は今、幼児に対して綴ってはいないので、仕方が無い。或る意味、病んだ魂の姿を認められない者は、最高と呼ばれる音楽の持つ力の恐ろしさを知る間もなく過ぎていくのだろうから。
 で、そういう病んだ世界に見る事ができる香りというものを表現できる歌い手は今日数少ないかもしれないが、マキさんはそれを見事に頑固に映し出す。確かに、60年代や70年代半ばまでの時代の空気を吸わなかった人たちには、私が感じているこの『Lilly was gone with window pane』の齎すクールさ、というものがどれくらい直接的に伝わるか知れないが、私はこのように歌を歌う日本人の女性が在る事を誇る。平和ボケしている日本人と言われて久しいが、そんな輩ばかりではない。激しさがあり、苦悩があったのは、昔からで、私が感じる限り、そのようなものが80年代以降(レノンが殺されて以降)、姿を消しつつあったように見る事もできるが、違う。在る。在るのだから、これからも引き継ぎたいだろう?  
 ロックに限らず、音楽を、本気で聴いた人間なら、それがどういう筋から生じ、興ってきたか、知っているはずだ。
 マキさんは5月28日に、45年の歌手人生を記念したアルバムを発表する。非常に楽しみだ。


 ところで、カルメン・マキさんがセイレーンなら、その隣でギターを弾く桜井芳樹を、オルフェウスと言おうか。私は彼のギターを30数年間聴いてきたが、この男の演奏は時に荒れ狂う海を一つの方向に導く事もあれば、人の心を冥府に導く事もある。若い頃、彼の演奏を"いぶし銀"などと称した人があったが、それは少し違うと私は思っていたものだった。この人は、人の音をとてもよく聴く。聴きながら演奏するとは当たり前の事なのだが、それを注意深く、かつ他者の音を促しながら演奏する事に優れている。彼は自分だけ突っ走ったりしないのだ。全体を見極めたり、人のコンディションを確認しながら演奏する能力を若い頃から持っていた。客観的で、バランスを好むが、押さえはしない。安定した状況の中で、彼の演奏はエレガントであり豊さを重視するのだが、時に呪文の如く絶え間なく続く旋律を彼が弾き始める時、人々は身を乗り出さずにいられない。神秘が降りてくるのだ。その神秘を彼が発揮している時、客席は呼吸を止めるような緊張感に満たされる。或は、麗しき沈黙…催眠に似た…。
 そのような桜井氏の演奏は、この晩のゲスト、スーマー氏とのデュオとしてアンコールに奏でられた『雨がひらひら』で神秘的に聴く事ができた。凄いギターだと、改めて、思った。景色も、色も、何もかも、あたかも普遍のように、弾き流れていくが、やはりそこには暗い夜があり、平気でいられなくなるような、平静でいられなくなるような酔いに導かれる。私たちは航海に出る。スーマー氏が、「どこまでも…」と、歌うが、その「どこまでも…」を更に遠い世界に置き換え、暗示するように、ギターを奏でる。魔性だ。


 そのスーマー氏は、素晴らしい声を持ち、彼の歌にはどこか影があるのだが、その影とは、氏の生き方を物語るように歌われる。経験が、彼をして思索する人として育み、それらが次々にイメージとして作品に投影され、彼の心からこぼれ落ちるように詩は産まれるのだろう。
 マキさんと共演したスーマー氏の歌声には何か、N・ヤングを思わせるような高音の魅力もあり、いつもと少し異なるスーマー氏の歌う姿勢を見たような気がした。
 スーマー氏の新しいアルバムの完成は近い。プロデュースは桜井芳樹氏によって行われ、録音に参加された多数の素晴らしい音楽家の方々の演奏にも注目したい。



 
 カルメン・マキさんと桜井芳樹氏は、6月14日に吉祥寺MANDA-LA2で行われる私、桜井李早と画家、Painter Kuro氏の共有ライヴ/仮構線プロジェクトにも、チェロ奏者の坂本弘道氏と共にゲストとして参加してくださる。

 
 私は、今、白紙になった気持ちでいられるのだ。
 ただ、私は自分の歌を歌い、自分の言葉を伝える。
 できればセイレーンになった気持ちで水に在りながら、或は、火刑台に立つ思いで。




 picは阿佐ヶ谷Soul玉Tokyoでのライヴがはねた後のカルメン・マキさんとRisa。




 桜井李早 / Risa Sakurai ©