2014-野戦の月海筆子/『百B円 神聖喜劇』@ 夢の島公園



 




 テント劇団「野戦の月海筆子」による2014年9月の作品、『百B円 神聖喜劇』(作・演出: 桜井大造)を観戦、新木場は夢の島公園。見事な公演だった。私は幸運にも1994年の『幻灯島、西へ』の、この劇団の旗揚げ作品以来、微力ながらも音楽で参加させていただいてきたものだが、この、今年の見事な公演を拝見して、今後も必ずや、この劇団に寄り添って生きていきたいと思った。
 桜井大造氏の魔術師のような、時にデアボリックな言葉を紡ぎ出す脚本の妙、ばらちづこさん、濱村篤のような1980年代の「風の旅団」時代から活躍する女優さんとともに、年々、若い俳優さんたちが参加し変貌しながら引き継がれて行く大造ワールドへの、身体を張った豪快な演技は恐れを知らない表現者の<戦場>のごとく、観る者たちの心をつかむ。というのも、この「野戦の月」の演じられる<テント>は、スタッフだけでなく、役者さんたちも一緒になって作るのである。それだけでも如何にタフなお芝居であるか、想像されることだろう。
 今年の作品については特に、現代の状況へのアンチとも言えるリアルな科白-言葉の強さ…それは大造作品では必ず迷宮の中に放り込まれた人物が遭遇する冒険の旅とも言うべき世界なのだが…その世界はダンテの神曲のように、或はゲーテの溺れる夢のように、失ったものを追い求める設定でありながらも、あからさまなセンチメンタルが入り込む余地はない。全てにおいてそこに開かれた世界は芝居であり、かつ、この世だ。何故なら私たちはテントの中の空気を嗅ぐ。それは現実だ。しかし、観えてくるのは、幻想の世界に生きるものたちだ。彼らは人であって人ではない。
 ここで『百B円 神聖喜劇』のあらすじなど私が今、例えかいつまんで表したとして、それはひどい長文になるので控えるが、今年のこの作品はあたかも予言者の作った物語であり、<神聖>という意味では、バタイユもピンチョンも頭を垂れるだろう。
 最後のシーンでは、俳優さんたちが皆、そろって右肩を出すようにしてお芝居のテーマソングを歌うのが恒例なのだが、私はそれを聴きながら、うっすら涙した。作詞は桜井大造、作曲は桜井芳樹、歌は私-桜井李早というtriple-桜井なのだが、この楽曲は些か難しく、恐らく俳優さんたちは科白稽古の合間を縫って歌の練習をされていただろうが、この楽日、ほぼ一週間に渡る公演を経過しての疲労していただろうはずの声を存分に発揮して力強く歌っておられた。それは希望の歌/詩だ。詩は唇を動かす…生き、倒れそうになるさ、生きるという事はshadowに遭遇する…もしくは、黒い穴かもしれない…だが、世界は必ずしも、ひとつとは限らない。我々は此処と、どこか別の場所を同時に、或は行ったり来たりしながら案外、この世界というものを捕らえ、迷いながらも、面白おかしく暮らしているとは、思わないか?
 そうして、その幻のような光景が、この、<テント>の中、で、繰り広げられる。
 それは人間の脳の中、なのよ…想像する、脳の世界。 
 太古の昔、芝居の行われる場所を、劇場と、人は名付けた。
 しかし、それは固定された場所とは限らない。芝が居る、そこにドラマが演じられる。動く芝だ。居るが、移動する。人はその土地に、場所に、居る。が、人々は待っている。何を? それは、自分が動く場所だ。あなたが動くとは限らない、それが来た時、あなたの心が動く。そしてそれは夢のような世界だ。しかし、あなたは時間が来たら元の場所に戻ることも可能だ。が、あなたは、芝の居る場所にいつでも足を踏み入れる事ができる。
 それが、芝居だ。
 私の歌は影のように俳優さんたちとともに、その場所に在った。
 ありがとう!


 私が印象的に感じたのは、以前は舞台美術を男性が執り行っていた「野戦の月」であったが、最近は女性の美術家の方々が担当されていて、それがまた新鮮かつ新たな変容のような気がした。女優でもある春山恵美さんの宣伝美術はステージ背景にどっしりと構えていた。また、舞台美術として台湾人の李彦さん、春山恵美さんの双子の姉妹である春山恵里さんらの若い表現者アヴァンギャルドな魅力は素敵だ。終演後、私は彼女たちとしばしお話をさせていただいたが、彼女たちは自立して暮らしてらっしゃり、各々皆、非常に澄んだ眼を輝かせているのだ。彼女たちは頼もしく、かつ、キュートであり、闊達で、まるで羽根のある天使だ。
 更には今回、ドイツ人と中国人の俳優さんたちも流暢な日本語で舞台に立たたれ、いよいよ国際色豊かである。

 
 ところで現在、奇麗に整備され、"夢の島公園"と名付けられているその土地であるが、ここはかつて「14号地」と呼ばれ1957年から1967年まで都民のゴミ処理場として存在した場所="夢の島"である。その後、ここだけで治まらなくなったゴミは1965年から1974年にかけて、「15号地 - 新夢の島」と名付けられた場所へと移動した。思うに私が少女だった1971~72年のTVアニメ『ルパン三世』の最終回に登場する夢の島は、恐らく時代的には後者の方だろう。
 夢の島、とゴミ置き場を名付けるなんて…と思った当時であったが、この土地の目的はそもそもゴミ処理場ではなく、戦前の飛行場建設の予定がにより名付けられた場所だったという事も聞く。
 が、あの1960年代から70年代の大量のゴミとヘドロ、光化学スモッグの時代、当時子供だった私など、そのような現実を惑わすためにあえて、<夢>、などという言葉を使って、国は安泰を示そうとしているのだろうと察したものである。
 そしてこの夢の島公園内には第五福竜丸展示館があるが、原水爆事故が齎した波紋を<夢の島>に設置する事も、何か日本人ならではの感覚であるような気がする。


 ああ、夢はいいさ、夢を持て、それは正しい。
 が、何のための夢であり、どうやって見る夢なのか、人間はそれを失いつつある等…
 多分に言い様はあるが…夢とはね、必ずしも美しいとは限らない。
 nightmare…の方が、よほどの確率で見るでしょう…
 だが、それは夢。
 そう思うと、あなたは悪夢さえ愉しみながら判断しようとする…ああ、この夢は提案している…ああ、この夢はメッセージだ…という風に。
 そうして、夢とは、あなたのためにあなたの恐怖を喰い、救ってくれるもの。
 夢とは、ええ、メッセンジャーかもしれなくてね。
 でも、それを私たちが記憶していないと、忘れてしまうようなものでもあるわ。

 


 さて、長くなった、「野戦の月」よ、来年、また新作に出会うのが楽しみである。




 Risa Sakurai / 桜井李早