- 座布団一枚、もってって - トゥイッターは100文字、フェイスブックは40文字



 文章とは、必ずしも上手でなくともよく読めば解るように書き手は意識して綴るものであると私は認識している。が最近は日本語を話す日本国民でありながら、よく読まず、あたかも横溝正史の小説に登場する警官の如く「よーし、解った!」とばかりに物事を奥深く見る時間を失いがちな人々がある。
 そしてそれはソーシャルネットワーキングの問題点であるかもしれない。何しろ次から次へ行くようになるんだろう? これを見たら次はこの記事へ、という連鎖が生じ、そしてそれが日本語だけに理解できたと安易に受け止めているのかもしれないが、自ら意識して思う事を書く者は伝えたい事柄に気を配るのが当然で、故に時間を使い人が目で追うよりも時間がかかる作業かもしれない。


 その上、時には誤解までされるのではたまったものではない。読み手は恐らく、その場で認めた一つのキーワードのようなものを察知しただけで全体の文章に反応している場合があるのだろう。更に言うと、そのような読み方をする人には、自分の考えもコントロールできずフラフラした事を平気で書いていたりするのだが、意見がまともに書けないので短縮するために人の文章を<再投稿>する事で満足しようとしているケースもあるように見て取れるのは、私だけだろうか…。


 トゥイッターは140字、フェイスブックも初期は長文を書く事ができる枠を用意していなかったと記憶する(私がfbにアカウントを持ったのは2010年前後でその当時ミクシィマイスペースを共にした日本人の私の友人/知人でもほとんど登録者に見当たらず、検索できた日本人の友人はたった一人、他は外国人だった)。それで私のようにやや長い文章を頻繁にあげる者にとっては詰まらないものと解釈してしばらく放っておいたが、東日本震災後、いきなり日本人のフェイスブック人口が増え、写真のフェイスブックという触れ込みのみならず文章枠が徐々に改定され、今日のように数百字でなくともよくなった。では、長い文章を書く価値はあるのか、と問われれば、どこかに紹介があるように、「ソーシャルネットワーキングで反応を得やすい文字数 - トゥイッターは100文字、フェイスブックは40文字」というのが正解なのだろうと、そろそろ思えてきた。
 それに写真があれば、文盲でも何だか解るというものだ。古く、世俗の人々は文字が読めなかったがためにそれぞれの宗教たちはその教えを説き、信者を得るために寺院にたくさんの絵画(写真技術は当時存在しませんでしたから)表し、人々に理解してもらう必要があったわけで、それを思えば21世紀のフェイスブックはもはや文章など無くともよく、文字など解釈する必要もさしてなく、日本語どころか、英語、独逸語、仏蘭西語、露西亜語、羅典語、亜剌比亜語が解せずとも、一秒で把握する術を与えるweb上のテクニックとして成り立っているわけで、それは、まるで、再び、21世紀の人類が、中世の時代に帰還させられようとしている現象に似てはいないだろうか?


 だからしてその場でチラッと見て捕まえて「よーし、解った!」と察する人、いや、読み手の頭脳が相当速く働いていると言われればそれまでだが、どうだろう。それが外国語であれば少なくともあなたはもっと用心深くなるはずだ。


 そう考えると、ネットの上に長時間いる事で十分理解できる世界とは小さき世界だと考えたくはならないだろうか。それは人々の座布団と思えば、温かいが。


 考える時間とは、誰のためでもない、自分自身のためにあり、せっかく何かを見るのであれば、時間をかけてみたいと私は思う。
 それでも、時間をかけるに値しないものが相手となると、残念ながら、そこに私の時間を使う事はなかなか難しくなるわけである。
 座布団一枚もらうのは、<笑点>でも昔は今程、楽ではなかったように思える。苦笑しながら、「じゃぁ、一枚、あげて」と言われた後の、「一枚、もってって」。
 しかし、それらは全て<今は昔>、近頃の<笑点>も大分変わってきた。商店街も閉じる事の多いこの国で、笑いの点も、昇天しそうな気配を感じる。
 せめてまだ活き活きしているのは、ソーシャルネットワーキングの座布団重ねと再投稿であろう。




 さて今、長文は閉じる時刻となりにけり。
 昨日、ひとつ年をとった人のために、昨日は共に過ごす時間があまり持てなかったので、今宵は昨日ひとつ年をとった人のために、細やなお祝いをした。
 その人の好物のコロッケを作った。
 お肉屋さんで買えばすぐ手に入る惣菜だが、手料理をすると案外時間もかかる。
 だが、そのような手間も、作り手の心であり、味である。




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