戦場という土地 - そして、現地、観念という言葉に念う



 




 シリアでジャーナリストの後藤さんが現地ガイドの裏切りにあい拘束されたという事だが、ナポレオン軍でさえ、1815年のワーテルローの戦いで現地ガイドの虚偽により、ウェリントン将軍率いるイギリス軍に敗北した。戦場とは信頼の場ではなく常識を覆す場所なのだ。

 
 写真は今から2005年の4月の初旬、私がベルギーを訪れた時に足を伸ばしたワーテルローで録ったナポレオン像。高い丘の上には獅子の像を見る。この土地に、何故か関ヶ原に似た印象を持った私であった。確か現地時間の4月8日の午前中、雨の降る寒い日だったが、ナポレオン軍がかつてここで戦った日も雨が降り地面がぬかるんでいたと話で読んだ事もあり、またこのナポレオン像が獅子を見上げる場所に立ち、それ程大きくもなく、ブリュッセルの街の小便小僧の像と照らし合わせると何か淋し気であった。ナポレオンはこの戦いの頃、皇帝の座に復帰したとはいえ、以前のような士気も、指揮官としての体力も少なくなっていたかもしれないし、彼は体調もよくなかったと言われているが、速やかな頭脳の動きと奇抜さ、勇気を兼ね備え、勝利を経験していても、負ける時にはあっけない。人間は生き物なので、寒さのような気候の問題、よく知らぬ土地で勘や力を発揮する事は容易ではない。勿論、運もあるだろう。

 
 ところで、観念という言葉がある。物事への考えという意味がひとつあるが、それが戦場におけるとなると、その意味は、<覚悟>、とか、<その状況を受け容れる>という意識がより相応しく感じる。ましてや、辞書にある観念という言葉の説明にある、仏教用語としての意識の働きとは別のベクトルとさえ思える。精神的悟りへの静謐な時間を必要とする余裕は無いのが戦場かとも思える。
 戦場での観念とは、負けも覚悟であり、時に必要なのは、迅速な諦めだ。「観念する」、という、辛い選択をせまられることがある、という事を私は言っているのだが、そのような観念が無い方がどれだけ幸福な世界だろう。


 いつも戦いによって奪われるのは、人々の命である。どのような大義があろうとも、戦をするという事は、命が奪われる。
 勝ったか負けたかよりも大切なのは、人間の命であり、その人間たちの個人個人の暮らしが、これまでの人類を存続させる最大の力だったのだ。
 悪いが、権力のおかげで人間は、動物たちは生存してきたわけではない。
 この世界に生まれた、ひとつひとつの命の連なりが、生活に専念してきた歴史が、今日の社会を作り上げた大黒柱だ。金銭によって作られたのではない、命によって作り上げてこられた地球なのだよ。
 そしてどのような者が、そもそも金融というシステムを作ったか、もう、皆さんはご存知だろう。


 あのナポレオン軍がワーテルローで敗北した時、英国で大儲をした一族があったが、それこそ迅速な勘で、それを成功させてきた。


 日本は今、ついに世界において、戦争を覚悟してもいい、という一票を投じた国となってしまったと覚悟しなければならない時代が来た事が恐ろしい。
 ええ、恐ろしいわ…私は女だ、戦いや暴力は、恐ろしい。これは好き嫌いではない、恐怖とは、支えを奪い、光を奪い、道を奪う。
 そうして、私がこのような事を書いている時にも、その恐怖に直面しながら生活している人々がいる。
 私など、こんな事を書く夜を持つ事ができるくらいには今、生かされているが、そういう自分を恥じたくなる。
 が、恥じるという閉じた観念よりも、その、私が与えられた命であるならば、それをもっと、少しでも、善く活用できるよう心がける事が、私のせめてもの小さな世界なのである。




 桜井李早