「太郎」の青春に思う事



 かつて、あの女史の描いた「太郎」の青春に今、日本人は何を思うだろうか。私の年齢などだと、あれの一部を国語の教科書の中で読んだような記憶がある。それは若い人(当時の)が靖国神社の前でぐずついているような...その時の太郎も或はうっすら風の歌など聞こえていたのかもしれないが。
 この時、太郎は何を思ったか、というようなありきたりな問いに、積極的な回答を示す事がとてもイヤだったような思い出がある。
 国語の授業が好きだったにもかかわらず。
 それは作者の心の裡に潜むエゴイズムを感じたのだろうね...。
 その後、1980年代以降、日本社会は不思議なエピキュリアリズムにしばらく突入するが、今日びではあれは都市国家が味わう演出(¥出された)虚構だったと皆、舌で味わう事となったのだろう。
 肥大した+はそれを上回る−を呼び寄せる。
 歴史は世界レベルだが、その事は個人にも当てはまるということか。




 李早




 追記:
 35歳まではいいだろう。しかしそれを過ぎたら、イノセントではいけない...人間は他の動物より成長に時間がかかるものと配慮してもこの国の「かわいい」が商品とされている事はよもや周知の事だろう、それが同時に一種の無防備さと未熟さとすら考慮され故に愛されていると意識して不足はない。