原子のように活発に
今日は流石に夕刻、エアコンをonにした。Macのdownがここ数日続いていたのだ。そして私はその時刻、料理もする。
昔に比べると夏が暑くなったと皆感じているだろう。だが、室外機がこれほど例えば東京を考えてあらゆる所に存在している以上、それは暑いだろう。
自分の家/部屋がエアコンを使わずとも隣家が使えば熱は出る。
墓石さえ、熱いだろう。アスファルトは熱を逃がしてはくれない。
車の数は増え、だからといって流通を減らすと人は食に不自由を感じるようになるかもしれない。
空気が悪いのは勿論どこかからの影響の下にある日本だが。
路行けばまた電車に乗ればかなりの人が携帯/スマートフォンを眺めている。それで暑い暑いと言っている。
震災以降、電力会社を批判する。だがここで電力を使いながらそれをする事もいかがかなものかとさえ、皆、考えながらの事だろう。
打ち水をしたとて、それは、逃げ水の如く、消えてゆく。
だが、人間の生活環境が変化しているいじょう、その中で暮らす事を否定するのも生きづらい。
一時サリンジャーの小説に描かれたグラース一家の次男バディのような電話も引かない知識人のそれを憧れた10代もあるにはあったが、私は実に60年代の高度成長期時代の申し子であったからして(父は私が少女時代、深夜に熱いお湯をなみなみと満たしお風呂に浸かる事を咎めたものだった)、所謂時代が与えるものを吸い込んできたおかげで、人里離れ、電気もガスも通さず水を汲んで暮らす事に必ずしも寄り添えなかったが(そういえば仏蘭西の田舎で、そのような暮らしをしている言わばオールドヒッピーのような人がいたが、その暮らしぶりにも尾や背があり事情は日本とは異なる)、しかしそんな馬鹿娘も遅まきながら自分の暮らしを恥じながらも、若干考えるようになる。
考えるようになっても、だから明日から突然、私が変わるわけでもない。
私がここに在るという事はいつ消えてもおかしくはないのだが、私は、エコとは単純に自分に見合った暮らしを整える事なのだろうと思っている。
だから、この夏は、よい方向にこの国を熱くしていこう。
それは、室外機の熱ではない。
それは、人々が互いを思いやり、親密になる事で発生する。
意見の違いがあるのは当たり前の事だろう。
何故ならそれは、私たちは各々、それほど個性的であるからだ。
原子のように活発に。
角の所で会おう。
桜井李早
pic by Romaine Brooks