- それでもSNS信者になりたいですか? -



 フェイスブックツィッター、これは私の場合だが、
 前者はとっても皆さん充実されている。
 後者はとっても皆さんこの国に疑問を持つ。
 フェイスブックでは皆仲良し。
 ツィッターでは皆政治批判。
 見知る人とはフェイスブック
 見知らぬ人とはツィッター
 写真のフェイスブック、そうだそうだと言って共感し合う(=いいね)フェイスブックだが、このフェイスブックが"よくない"を提案し始めようという企画があるとか聞いたが、それを始めたら、結果ツィッターに似た現象がフェイスブックにおいて日本で起るだろうか? ...ないだろう、日本におけるフェイスブックは議論の場ではないのだから。


 で、どちらも米国に始まったSNSだということを意識してみよう。
しかもこちらの情報は握られていく、例え私たちが特に危険思想の持ち主かどうかなど、さして関係なく、だ。つまり、政治的意見をこのようなSNSに如何に書こうが、それがリンクを伴ってあげられている程度なら、たいした問題ではないということだ...要するに、それは「あなた」の政治的意見ではなく、「あなた」が読んだ記事にあなたが反応している、と見なされる程度ですむわけで、リンクと一緒に一言添えたくらいでその個人の政治的思想判断にまで及ぶとはリサーチ側も考えてはいないだろう。
 逆に、自分の個人情報が知れたところで困らないと思う人は多いだろうし、マイナンバーについて特に危惧しなくても暮らしていける人もあるだろう、そう、庶民である、と意識してその"個人"がどれだけだろう、或いはその"個人"の家族や仲間をSNSに公表した所で問題はないだろう、むしろ、その"個人"がこのような場所にいる、ということをあげることで、その"個人"が説明/証明されると感じさせられる...これが、このようなSNSによって企画されたweb上のテーマパークなのだ。


 が、写真のフェイスブックということを忘れずに...。
 このフェイスブック、始まった頃はツィッター同様140字程度しか書き込めなかった、しかし、家族や友だちと写真を分かち合おう、というなかなか親密な触れ込みで個人の名前や生まれを載せることをすすめることで、いかにも安全なSNSであるといわんばかりに登録者を募ってきた。登録者が増えることで広告も盛んになり、やがて文字数も増やし、特に日本では東日本震災後、mixiに辟易した人々が安心してどっとフェイスブックに流れ込み、人によっては、災害の混乱に乗じてその"顔(本物かどうかは謎の存在である)"でビジネスを拡げたり、或いは妖しいアカウントに見事にひっかかてまで"繋がり"に殺到する道筋もあったようだが(これはNONUKESとかプロフィールにわざわざ掲げるツィッター利用者にもあったことだが)、そして自分を見てくれる人が多いと実感すると人は写真を載せることに躊躇しなくなる、結果、たとえ火山が噴火する危険さえあってもその写真を自分のページにアップせんがために石に頭を直撃されることも考慮せず手持ちのカメラを構えるなどという悲劇を...人々の心に植え付けるSNSだということを憶えておこう。
 特ダネはプロの写真家に任せておいた方がずっといい、素人は個人の身の上を按じて暮らすことが大事だ。
 言っておくが、「あなた」が個人としてアップした写真はそれを偶然見た人が、その人の"都合"で"勝手"に「あなた」の知らない所で共有されているかもしれない、ということを覚悟しておくべきだろう。


 ドイツはフェイスブックに批判的見解を持ち始めている。差別的な発言を触発するという見なされ方である。西洋ではそのような見方が多いが、日本では今のところ、穏健でいくのだろう。
 だが、結局、SNSSNS
 実際、これが保たれているうちは知り合いでも、これが無くなったら、散ってしまう人間関係もあるだろう。
 SNS商法も、楽ではない、ということです。
 フェイスブックも単に新自由主義が産んだ"プール"と認識し、それなくしても個人として立つことを望むのであれば、"人間的"な、つまり、アナログな要素に立ち返って人と触れ合うことが大事だと考えますが...
 要するに、SNSは片思いを奨励し、その片思いの人々の関心をリサーチしているゲームとして、世界中の人々の意識を情報として食い物にしている、と理解して遊ぶことよろしく...。


 写真は大切なものですが、しっかりと書き留めておく、という手段も大切なことです。
 大学での文系が疎かにされる危惧があるようですが、大人がSNSで短い文章と写真で楽しむ気風を見て育つ子供たちは、どのようでありましょうか。


 それでも、ええ、できるなら、私たちの"顔"というものを素直に表していける社会を期待したいところ、です。



 桜井李早