- ジゼル、或いはオフィーリアのように、それもクリムトのパズル次第の私の人生 -



 人が、時に生命を捧げるつもりで創作している姿など、確かに世界の崩壊に比べれば小さなことかもしれない。
 だが創作者はその瞬間が一生のように研ぎすまされ、必死なのだ。
 そこに世界の滅亡など入り込む隙はなく、その瞬間は永遠に近い。
 誰がどうした何がどうしたという暗黒よりも、それは深い。


 私の名などどうでもいい、が、私が作った作品は羽根を持ち自由に羽ばたいていってほしい。


 先日は久々にバレエを愉しんで...やはり40年前ローザンヌを目指すべきだったなんて後悔しても始まらないが、私はオペラよりバレエの方が実は好きなのだ。
 それは私の肉体がそれに向いていることを私は知っていたからなのだが、10代にバレエでなく音楽を選択したのはこれはもはや秘密、否、謎だ。


 ところで、ずっと心のシコリとなっていたのだが、16年前、私はウィーンのベルヴェデーレ宮殿がまだクリムトの"接吻"を展示していた頃訪れ…それは腰を抜かすという表現さえ正当な程、設置された空間(広間)との見事な状態を含め圧倒されたのだが、他の部屋にはエゴン・シーレの数々の作品も展示されていた...そこで購入した"接吻パズル"を全く手がけないまま時を過ごしている。
 当時まだ時間に余裕のあった時期に悪戯にやってやろうと思ったこの細かいパスル、残りの人生の愉しみとしていたが、このまま死んではいけない。





 このまま死んだら、オフィーリアかジゼルにあるだろう。
 それを救うのが、クリムトのあのアンバランスな美しさなのだとして、私はあのパズルをいよいよやらなければならない。
 人生とは、麗しき関心事。
 そうでなければ、生きることも困難なパズルと化す。




 桜井李早