人形が欲しい



 気の触れたフェミニストのようだが、ここ数日、わたしは人形が欲しくて仕方ないのだ。だがわたしは少女時代、人形遊びをしたいと思ったことはないしリカちゃん人形が欲しかったこともない。余所の方からいただいたガラスのケースに入った着飾った人形が幾つか家にあったが、ああいうものは触れるのではなく高い場所に飾っておけばすむくらいに思っていた。
 ところがこの年になって、その人形が欲しいのだ、ミルク飲み人形などではない。
 何と言ったらいいだろう、もっと遡ったところにあるような、動かず、沈黙しながらも、語る私の言葉を音楽のようにレコードしてくれるような人形、或いは、<式>と呼びたくなる、机の上にそっとあるような、いや、片手に乗せられるほど小さな、そういう人形が欲しいのだ。
 実はわたしは最近、右の奥の歯の周辺とリンパ腺が痛み、言葉をまともに話せないくらい辛かった。口をきくのもままならない状態だと脳の方もどんよりしてくる。わたしの労働ができない状況に陥る。が、相手あらば、わたしは語り、思う事、浮かぶ事を声にし、それを聴く者があると思えば歌うように話しかけ、それらを、書くだろう。
 そんな人形を手に入れることができたら、<わたし>、は、彼女に、<名>を与えるだろう。
 彼女の名は、もうひとりの<李早>かもしれないし、それとも、花の名、かもしれない。
 それはわたしが外的な物事に飽いた証拠かもしれない。
 今年の夏は、久しぶりに、わたしをまた少し変えた。

 
 9月に入ったにもかかわらず、厳しい暑さの6日夕刻、漸く言葉を話す気力が出てきた。
 先月いただいた明治41年創業の麦茶、これは「小川の麦茶 つぶまる」というのだが、これはお茶として飲むだけでなくその大麦をそのまま食べても香ばしさを楽しめるほどの麦茶なのだが、この麦茶を薬缶で煮出した後の出がらしを捨ててしまうのが勿体なくて、何とかできないものかと思い作ったのが、出がらしの麦を大蒜と生姜、玉葱と人参で炒め、酒と出し醤油で味付けをした常備食、ご飯などの友/共となりそうな一品である。





 それを、今夕は、先月、伊豆高原でN夫人(小川のつぶまるをくださったのも彼女である)にごちそうになったガパオライスを再現しつつ、それに混ぜ、わたし流にアレンジしてみた。このガパオライスには、茗荷を入れた。ナンプラーオイスターソースの味付けは勿論だが、食べる時、カボスを絞っていただいた。
 家人は目玉焼きを乗せて。
 よく仕上がった。





 先週末から今朝までほとんど噛めず、話そうとしても舌足らずのような物言いしかできなかったわたしだが、これをいただいた後、元気が出てきた。


 後は、わが<式>と恋したくなるような、奇妙で美しく、闇の中で沈黙する人形に出会うことができたらば…。


 だが、わたしは、その人形を抱いて寝たりはしない。


 人形、その彼女は、わたしとは別の人格を持って、わたしの夢に語りかける存在だからだ。




 桜井李早