- 野戦の月 16の秋 -



 それは今月最初の日曜日、夕暮れ時、空は若干雲っていただろう。
 だが、わたしは美しい<月>を見た、それは"野戦の月"。
 それは見ようとする者に見える<月>だ。
 わたしは5歳の少女と10歳の少年と戯れに夜の野を駆け、だるまさんがころんだ、をし、深夜には紳士とタンゴを踊った。
 水が流れ、わたしも水となった晩。


 それは今月最初の土曜日、わたしは懐かしい人に会った。
 彼は私と同じ年、俳優だ。
 今宵、彼は芝居を観に来ていて、私たちは数年ぶりに会った。
 変わらず潤む美しい瞳の持ち主の彼に私が「元気そうね」と言えば、彼は「身体はボロボロだけどね」と返した。
 その声は昔、「アパラチアンワルツを聴いたんだ」と伝える私への早朝の電話の声と同じだった。


 今年のお芝居『混沌にんぶち』、桜井大造氏(導演)による脚本は役者さんたちによる独白が光る作品となったとわたし個人は感じた。
 あたかもギリシャ劇を観ているような、或いはシェイクスピアを鑑賞しているような、それは人間の魂が天界や魔性と触れ合いながらも、この世との関わりから引き離されず足掻き、しかし芝居というものがこの世を離れたものとして鑑賞する愉しみだとして、これは大造氏の作品の中でも記憶に残る放たれた美の世界だったと思う。
 いよいよ、桜井大造が創りつづけてきた世界に今日の日本という国の状況が迫って来たことを意識し、独り、ニンマリした宵であった10月2日。
 また、10月1日2日、"野戦の月楽団"のCDをお買い上げくださった方々にも、感謝。


 Dylan氏がノーベル賞を受賞したということに世界は動かされるだろう。だがわたしはノーベル文学賞に疑問を持つ者のひとりだ。何故、ノーベル音楽賞やノーベル美術賞、ノーベル演劇賞はいまだ見えないのか、それこそ、ノーベル平和賞というものがあるようだが、いまだ世界平和など叶っていないわけで、これについては平和貢献賞ならノーベルの名を利用し価値を見、そこに人間中心の未来を託す言い訳と察する範疇と考え込んでしまうが...実は、個人的にはDylan氏がこの文学賞を受け入れなかったら、カッコイイかもしれないわ...と、そんなこと、ふと、思うのですが...何故って、権力者たちは選ばれた者を歴史に残すことを意図し、世間は英雄を求めるということがくり返されてきたわけですし...そのDylan氏の音楽を聴きながら...ね。


 そしてこの週末、わたしは少し遠出をすることとなった。
 夏は海の方だったが、秋は山の方である。


 ちょうど、この日曜日は、16日は満月らしい。
 信濃にて、佳い音楽とともに、美しい月を見ることができるだろう。


 写真は10月2日、国立はキノキュッヘにて、テント芝居、"野戦の月"の打ち上げでの一枚。


 素晴らしい人々に、感謝をこめて。




 桜井李早