- デラシネ、満月の夜に @安曇野 -








 10月15日の暮れ時、カルメン・マキさんのコンサートに同行し、長野県の安曇野へと向かった。到着は夜遅くなるだろうが、コンサートは翌16日なので、車は急がず、暗い中央道をゆっくり走った。運転はギタリスト、家人桜井である。その人はその日、ひとつ仕事を終えての移動であったので、わたしはよくおしゃべりをしながら運転者が居眠りなどせぬよう気を遣ったものである。談合坂で休息しようかとも思ったが、彼はもう少し、と言った。が、夕食も摂らずにいたせいか、その先で一休み兼食事などした。ギタリストとわたしはチャーハンを選んだが芳しくなく、しかしマキさんのお蕎麦は当たり。休憩を終えて再び車を走らせながら、「あのチャーハン、ハズレだったね」とわたしが言えば、桜井は「もう、忘れた」と笑った。そういう男なのである。
 中央道はカーヴが多く、この道を夜に運転するのは恐いと思うわたしである。前方に車があればまだ良いが、先頭を走ると道路がどちらの方向に曲がっているのか知れなくなることがあるからだ。暗い前方ばかり気にしていると目が疲れるので、視線を動かし、空を見上げる。そこにはあと少しで満ちる明るく蒼白い月を認めることができた。星も、東京の空よりも若干見え始める甲州である。


 そうしてそれは、午後の10時半を過ぎた頃だっただろうか。月の下に光るものを見た。
 一瞬、飛行機かとも思えたが、それは尾を引きながら急な角度で落下していて、仮に飛行機であれば墜落の路を辿っていることになるが、否それは、流れ星だったのだ。盲目の者が         
「マキさん、あそこに流れ星」と、わたしは後部座席でくつろいでいるカルメン・マキさんに話しかけた。わたしたちは見た、月夜の流れ星を。そしてわたしは、こういう時は咄嗟に何かを願わなければいけない、と思ったものだが、生憎、胸の裡に適当な言葉、つまり願いが浮かばない。違う、言葉がないわけではないのだ、このような機会にさっと飛び出す恰好の願いが、わたしの裡にない、ということなのだろう。浮草のような我が心ゆえ、機会などというものにさして頓着せず生きてきた証拠なのだから仕方が無い、未練がましく流れ星への願いを探すより、これを今宵、見た、ということこそが佳い機会と納得し、前方へ目を戻すもそこはやはり人間、再び流れ星を見上げた。
 明るい月の身近を通過しながらあれほど輝いている流星なのだ、それはかなり大きなものだろう。どこへ落ちていこうとしているのか気にかかるが、わたしのそんな好奇心などその流れ星にとっては文字通り銀河系の外、星はやがて闇にスーッと消えた。

 
 おかしなもので、中央道の闇を走りながらこの旅のマキさんのコンサートのベース奏者の佐野さんの車と遭遇した。こちらが追い越して合図をすれば、後方から合図が来た。そのまま安曇野まで連れ立って走り目的地に到着すれば、ドラマーのつの犬氏が暖かく迎えてくださった楽しい宵の宴、しばし。土地の野菜、特にキクイモの力強い味に驚かされた。
 信濃、そこは星々も東京よりずっと近く、輝く土地であった。


 翌夕のコンサートはたくさんの人々との出会いあり、マキさんのプログラムはわたしのよく知る楽曲たちであったにもかかわらず、つの犬さんと佐野さん御両者の個性溢れる演奏により、これまでとはまた異なる印象だった。それは素晴らしく、ビートに溢れた物語感を突き進むマキさんの歌/詩世界が発揮されたと感じた。
 ああ、コンサートの模様についてはわたしはここで多くを語るつもりはない。わたしは批評家ではないので。

 
 そして、このコンサートを聴いた人たちからの声をわたしは聴いた。
「マキさんの歌に、身震いしました」と。
 何よりカルメン・マキさんは「ライヴは一期一会」とおっしゃりながらこれまで数えきれない場所、土地どちで歌ってこられた方である。そのマキさんの姿勢を受けとめると同時に、そのひと時が一期一会であり、また、巫山戯たもの言いではあるが、桜井があのチャーハンについて「忘れた」と言い切る姿を重ね合わせるフトドキモノのわたしは、あたかも、あの安曇野の地へ向かいながら、あやかしの世界へ流れ込んだような気がした16日であった。
 そういうわたしは、マキさんの培ってきた精神、表現への想いを引き継いでいきたい者である。


 ひとつ、これはわたし事であるので、ここで表させていただきたい、それはカルメン・マキさんがここのところ、大事にされて歌われる楽曲のひとつに『デラシネ』という作品がある。これはマキさんの詩にわたしが音楽を作らせていただいた。他に『望みのない恋』という作品もあるが、この、安曇野での満月の夕べに歌われたマキさんの『デラシネ』–––これは、その前の晩、現われた流れ星に咄嗟の願いを唱えられないような者、つまり、<デラシネ>とは<根無し草>という意味があるが、そのような者の上にこそ輝く流浪の楽しみと儚さを表した楽曲としてこの後、それを聴く人々の心を照らす力を持つ音楽作品となるのではないかと予感した。
 …そうか、では、こんなわたしにも、予感はあるのか…そう感じた、満月の16日であった。




 この小旅行、わたしは『方丈記』を鞄に忍ばせていた。


 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。


 ~『方丈記鴨長明 


 鴨長明は平安の世の後期にに産まれ、鎌倉の時代へと移行する時代を生きた人である。詩と音楽の世界に深く触れながら生き、出家の路を選んだ人であった。長明の前に似た生き方をした人に、西行がある。西行は浪漫な詩人であったかもしれない…それはわたしには解らないがしかし、鴨長明の生きた時、これは時代が貴族社会から武家社会へと移り変わる時であり、それだけでなく、この長明が随筆として表したように、当時は飢饉、多くの災害、病のあった時でもあった。
 災害や病、貧困は、この人の世にあって、何度も何度もくり返されたのである、何も今だけではない。
 また、流浪の民、難民というものも、人々が争いを起こし、生き抜くために人々が手段とし選ぶ路として太古の昔からあった行為なのであろう。
 この21世紀、難民を迎える迎えないと論議もあろうが、そんなことを考えても、ただ、動こうとする者たちの欲求は止められない。
 そして、よくよく考えてみれば、人間というもの、それはどこかの土地に定着することを求めようとしてみる反面、どこにも定着せず、水の上を漂うように、浮草のように、旅をするように、どこか見知らぬ土地に、あたかも風に飛ばされる<種>のように、あたかも流れ星のようにスーッと何処かの地に落ちる<石>のように、出物腫れ物所嫌わず、人の世とは、ふいに放屁するくらいの大らかさあって、平和というものなのではないか、とも思った。
 産まれる時、人はすでにその一生の多くの苦痛を味わいこの世の空気に初めて触れるのではないだろうか。憶えなくとも、そうなのではないかとわたしは察する。その時、その生の確かを認めてくれる人があれば、それらの人の情を受け、授けられ、名付けられ、その名とは、ひとつの呪ともいえるかもしれない。が、人はその<名>に縛られることを時に厭い、名を変えたり、暮らしの場所を移動したり、主義や主張を自在に変えることを愉しみ、この世を旅する。


 わたしが何度もこのような場に書く一言がある、それは…


 人は、いつも同じ顔をしていては危険なのだ。


 わたしたちが、その個人の人生において自由であることを愉しむために、わたしたちは幾つかの顔やわたしたちを縛る<名>を持ち、そして、いつでも好きな場所に移動する心構えを持つくらいの……デラシネ……という生き方を心のどこかに盛り込んで路を進んでみるのも、人の世の在り方なのではないだろうか。




 コンサートの翌日、わたしたちは安曇野の数ある美術館の中、碌山美術館を訪れた。
 荻原碌山は19世紀末に産まれた日本の彫刻家である。ロダンに影響された彼の作品群は滑らかに洗練されているように見受けられるが、生きる人の姿をそうよ、その通り、彼の心の目を通して浮き彫りにされている。その対象物が、化けていても、いいのだ、作家がそう見、感じた姿が表されていれば、それはその通り。そんなはずはない、というバランスがあったとしても、それは、<表現>であり、その表現という、一個人の信じる状態が潔く表されることが大事なのだ。
 アーティストたちは、それを知っている。
 が、権力を欲する者たちが、念仏の如く心に刻んだ不可解な表現を世に広めようとし、それはあやかしさえも反吐をはきたくなるような薄汚い空言となる場合がある。人々、民人の声を聴かず、<勝ち負け>や<賛成反対>という二元論のなかに世間を押し込め、統率しようとし、それだけでは世界が豊かにならないと朧げに解っていながらも多数決で仕方を表し、少ない意思は端へと追いやられる。だが、追いやられた魂を拾い、それを新たな粘度とし、形作る者は、絶えないということも、歴史なのだろう。
 荻原碌山の時代、日本の政府はその在り方として、彫刻は不要/無用のもの判断したとか…。
 今日となっては驚くような意識だが、それも19世紀から20世紀へと向かう日本の政治権力が如何に慌ただしく、国益に集中するあまり、人間性、芸術性への関心を軽んじるばかりであった形跡を見て取れるが、それは21世紀になった今にも、これは日本だけでなく、どこの世にあっても見られることなのではないだろうか。

 
 だがね…肖像画家や彫刻家が、その対象物の何を最も表現したいと意図しているか…例えば機会があれば肖像画家と会ってみればいい、その人は描く人物の特徴をすべからく敏捷に察知し、秘めたようにしてその人物の特徴を奥深く表すのだが、その表現が巧みであればあるほど、描かれた本人には自身の隠したい特徴や性格が如実に表現されていることに気づかず満足するように仕上がっているものなのだ。
 要するに、芸術家ほど、感に冴え、恐いものなしに生き、根が深く、相手にすると厄介なものもない、ということ。
 もっとも、相手にしなければ、何ということもない、ともいえるが。


 そこに描かれた銅像たちのことはともかく…


 この21世紀を生きる人々は、月のエネルギーならぬ人工的圧力によってやんわりと襲いかかるエネルギーにより劣化せぬよう心がけたいものである。
 それは、年をとることとは異なる。
 人間が、人間の力や精神、自然に寄り添う生活言わば風土、そして感…それらよりも、例えばこの電脳に頼る日々を過ごし、何年も過ぎてゆくようなマンネリを続けていったら、人の世はあやかしの世よりも非現実的なものと化してしまうような気持ちになる李早である。


 そのあたり、あまり毒にならないよう願う。


 だが、人生、デラシネ、であるわたし李早。
 西行鴨長明、彼らは啓蒙したわけではない。
 そこがひとつの貴い日本の思想、文化の面であろう。
 それは、顔、では、ない。


 素敵な満月に巡り会った秋の週末に感謝をこめて 
 そして何より、このコンサートのために演奏家としてだけでなく、様々なお気遣いをされたドラマーのつの犬さんに感謝をこめて 




 写真は満月の夜の魔女ふたり=カルメン・マキさんと李早 




 桜井李早