- 密林にみる光景とまたしてもオフィーリア云々 -



 特に買うつもりはなくとも、気になった書籍など検索しているとご存知のようにアマゾンのページが上の方に出てくるのでヒョイと覗いてみると、書籍へに向かう興味よりもそこにあげられている読者の書評の数々の方が面白い。書いた人々の文章というよりそれは、それらを書いた人々の関心が書物によっては311以前とその後では異なるからだ。
 それほど、2011年3月の東日本大震災は、多くの日本人の考え方や見方を変えた出来事だったと実感する。


 人の声は黙らせられない。
 だから表現者たちはどんな場を借りてでも、何か言おうとする。
 それは当然のことだろう。
 窮屈な世の中になればなるほど、主張したくなるのは過去が表している。
 だが、歴史はそれを書いた者、或いは勝った者による都合で真実とは別の表現が為されてきたケースが多い。
 それは、男が髭をはやすようなもの。
 それは、女がよく化粧をするようなもの。
 と、力や美徳を外に表すための、少し手をかければすむ器量よし、ふふ、マメさと思えば愛らしくもあるが、どうだろう…
 だがその髭の手入れが未熟だったり、化粧の技術が器用でなかったとしたら、歴史を始末するための大きなポイントを失いかねないだろう。
 そこで昔ながらの箒や雑巾がけでスッキリできるような、塩辛い汗を流すこれからの季節をおもう。
 何せ、家というもの、風通しの良いに限るだろう、して、家というもの、冬の寒さも辛かろうが、実は、夏の時期に過ごしやすく建てられたものは、有り難い。


 この季節、家人がわたしに向けてからかう言葉にあるひとつ、「あなたは言うよね、あたしだけ寒いって」。


 このごろ時間のある時に寄ってみることにしている水の精を祀った神社がある。
 太く大きな松の根元にはスポンジ状の海綿に似たものが固まっている。
 ここは熱帯でもない、だが、古代、ここが水の豊かな土地だったとしたら、この、一本の古く巨大な松が海からの恵を根元に産んでも、不思議はないだろう。
 水宮/水寓、か。
 わたしはこの社と松に最近祈るのが好きだ。









 祈る時、わたしは、皆のよく知るジョン・エヴァレット・ミレイの描いた『オフィーリア』のように、車の運転席のシートを倒し、横たわるようにして、できるだけ樹の天辺をみあげられるようにしながら背を伸ばすのだが…


 それは –––


 そこは画家が描いたように、けっして深すぎず、誰かに見つけられるような川、ということになる。
 そうなると、表現者とは、<見つけられるもの>という結末になり、それは髭をはやしたり、化粧をしたりする現世のナルシスと、そう、変わらないものなのね。


 ポーズ。


 だが、それをあしらってもつまらないのだろう。


 オフィーリアは半開きの口、涎だってたらしていい、それでも何か言いたそうにしているこの描写が、わたしたちの目を潤し、それは、オリの溜まったような世界より大分純粋のように見えてきてしまうわけだが、その哀れがいとおしいのだとして、それを咎める必要があると思ってみても、この作品の良さにはかなわない。









 冷たい浴槽に浸かったまま、画家のために我慢したあのオフィーリアのモデルは、英国の寒い19世紀の世を暮らすために必死に、余計なことは考えず、それで病になるなど思いもせず、ただ、生きたのだろうから。

 

 
 ~ 桜井李早の枕草子 ©