-「葬式無用、戒名不用」 /『傷だらけの天使』考 -



 ここ半年、あっちやこっちで慌ただしくしているのだが、再放送の『傷だらけの天使』を観るのは懐かしく、愉しみだった。最終回、オサムは死んだアキラの遺体をドラム缶に入れリヤカーで夢の島に運ぶ。高度経済成長を遂げた日本、しかし都会の闇を生きる若者(ショーケン)が友(水谷豊)の死を悼みながらゴミの地を、背を曲げて歩む姿はひどく悲しい。彼を葬る人は世界でだだひとりの人であり、その死んだ若者はおそらく女を知ることもなく去ったように描写される物語の哀れさにわたしは痛む。アキラはオサムに惚れることで同性愛に近い青春を生きたのだろう。
 そう考えるとこれは失恋のドラマでもあるが、このドラマは日本が戦勝国に常に失恋している姿を描こうとした当時の作家たちのアイロニックな姿勢でもあったと感じる。


 死者を葬るこのような光景は、古の京都、鳥野辺などにもあった姿なのではないかと想像したくなる。金がなければ庶民は供養もできず墓も作れず、産まれ、果て、そこに悲壮感を持ってみても、やりきれない、そういう情景だ。


 一見浮かれていた日本の'60年代もこの『傷だらけの天使』が放送された'70年代になると先の戦争後、殺伐とした一面を預かる(政治的/国際的)ことが拭いきれない状況となった。ベトナムの無駄に長引いた戦争で失われた多くの命も忘れがたくこの時代は専ら世界に<ショック>が蔓延した。
 そこで例えばロッキード事件、色々あるが結局、先の戦争に負けた国は飛行機を作ってはいけないこととされたわけで、だからドイツも日本もイタリアもその技術力を自動車に向けてきた。だがそれで頑張れば、別の角度から因縁をつけられ、常に、だ、金、という穏やかでない物があっちこっち飛び交う。
 白州次郎田中角栄をとても評価していたらしいが、田中角栄は政治家になるには家が貧しすぎたということも言及していたようだ。
 そう考えると角栄ゴジラのようなもので、敗戦と放射能が極端な型となって現われた象徴 ––- 金や血筋にまみれた日本から出た特異なものが大きな顔をし運動会のような足並みで進められた日本の明治維新後の影の部分から現われた異端児として ––– 角栄とは、満足な暮らしを営めないまま生の機会を追うオサムやアキラとあまり変わらぬ具合に登場したアウトローだったのかもしれない。
 夢の島行き、という切符を持つことを恐れてみても、ああ、わたしも、粗大ゴミのクチだろうから、ドラム缶でけっこう。
 今のうちに自ら、「葬式無用、戒名不用」というくらいの遺言をしたためておこうと思う。


 バブル時代如何にも戦後最高に日本が金の力を掲げた風を装い我も我もとノコノコ諸国に出かけた(企業だけでなく若い日本人もたくさんあった)が景気の良さ故チヤホヤされはしても後にあれは素敵な幻想と捨て難い思い出として胸にしまい込みここでやはりジッと我慢する、耐え難いことは忘れるに限る姿勢…。
 …だが忘れる者ばかりとは言えない。『泣いてたまるか』…という渥美清が様々な人物を演じるドラマが'60年代放送された。これも時にシュールな作風で脚本家たちが腕をふるい戦後日本の市井を綴ったドラマであった。このドラマが後の渥美清の『男はつらいよ/寅さん』シリーズへと成っていく。


 桜の季節、わたしはこの樹の下で酒など飲む気になれない。
 若い人たちの希望をいかすもころすも、これは個人的なことだが、わたしにとっての4月は、"残酷な月"なので…。


 ともあれ残念ながら価値の低い順に割を食う。
 これ極道が世界ということなのだろうか。


 そういう歴史は藻のようにこの世界に纏わりつき何かにつけ穏便に済まない状態になる毎に「あの時こうだっただろう」と過去の強者は弱者を脅し刄を突きつける(これは強姦に似ているわね...)、一方を手なずけられたなら余計なことを言わせないために計らうよう手配し ––– それを最近、よく聞く言葉でいうところの<忖度>とでもいうような ––– 他者の気持ちや行為を慮ることが気のきいたことであるかのように雑草のようにはびこんであっちやこっちの野を荒らしている。
 そんな慣習限りなく、人の世が果てるまで連鎖していくような心地の良くない世界にわたしたちは暮らしているのだとしたら、そう、わたしたちは確かに、夢の島行きだろう。


 『傷だらけの天使』は学歴も名もなく社会からはみ出した若者の日々と金持ちが操る世界とその金持ちの案配が悪くなれば無名戦士同様葬られていくだろう彼らの未来を想定しているが、どんなに汚れていたって人情なら持っているんだぜ、と都会の片隅に生きるその日暮らしの若者の情念をうたった物語ね…。


 このドラマの数年前、『ルパン三世』のファーストシリーズが放送されたが、この最終回も夢の島、ドラム缶でドカーン。だが、皆、太平洋を泳ぐ。これをリアルタイムで観ていたわたしはほんの小学生だったが、確か、「アメリカさんへでも、行きましょうかね」というようなルパンの科白に皮肉な意味を受け、ブラウン管のこちらから微笑みを浮かべたことは憶えている。


 昔、日本人は念仏を唱えることであの世にて成仏することを尊んだ。
 最終回の『傷だらけの天使』、オサムはアキラのために、つぶやくように何か歌っていたね。


 そうしてわたしは、明日の朝、早起きしなければならないにもかかわらず、ゴドーあたりを待ちながら、『…天使』のショーケンみたいに、魚肉ソーセージなど野蛮に齧っているところ、なのである。




 追記:
 上記は少し前に或るところに綴ったものであり、今再び、『傷だらけの天使』はBSチャンネルで毎週日曜の夜に放送されているようで幸いかな。




 ~ 桜井李早の枕草子 ©