松永孝義 - 『QUARTER NOTE』によせて 








 二年前の七月十二日、私はパリの空港でベーシスト、松永孝義さんの訃報を知った。
 チェックインを終え、ゲートラウンジから東京に向け、国際電話をかけた。
 聴こえてきた電話の向こうの男の声は静かに泣いているようだった。
 電話を切り、私は朝の空港で震えていた。パリの空は雲っていて、私は独り、ビールを飲んだ。隣のテーブルでは3人の若い日本人女性がパリ旅行の思い出話に浸っていた。彼女たちは私の方を時々見るのだが、おそらく、何故私がそれほど悲しそうな顔をしているのか疑問だったのだろう。私は、泣いていたのだ。
 その朝、私は南仏からパリにまず向かったので、前夜からほとんど眠っていなかった。若干の疲労があるはずだ。だから搭乗したら、眠ってしまおうと思った。
 しかし、フライトの間、私はお酒を飲んでいた。機内食の時だけでなく、わざわざ飲み物をオーダーしたり、取りに行ったり…全く、眠れないのだ。全く、酔いもしない。独り、フライトをする際、私は私の隣の席の人に恵まれる事が多く、日本人に限らず、外国人であっても、よく隣席の人と話しながら長いフライトを楽しむのだが、あの二年前の、パリ発-東京行き、の時だけは違った。私は話さなかった。隣席がどんな人だったかさえ、憶えていない。忘れて不思議はないと思われるだろうが、私という者は、通常、このような事、つまり出先で会った人との思い出をいちいちよく記憶しているからである。


 成田に到着したのは翌朝、蒸し暑い日本の空の下、私は自分が浦島太郎になったような気がした。
 それは二年前の事である。


 そして、今年の七月十一日、これは松永氏の命日の前夜になるが、氏の音楽を引き継ぐ素晴らしいライヴが行われた。それについて、私が、今、ここで、多くを語る必要もないだろう。会場に在った人たちは皆、それを知っている。そして、皆がそれを想像できるだろう。
 それ、とは、<一心>という言葉だ。


 ただ一言わせていただくならば、それは、ひとりの人間が遺したものの大きさに感じ入り、誰も泣かず、笑顔と、音楽に対する歓びに溢れる事ができた<時間>に感謝したい、という事である。
 それは、ああ、演奏会とは、このように愉しいものなのだ、と、痛感せずにいられない一夜だった。


 一言、私に、


「誰かが死ななければ、こんな素晴らしい、愉しいライヴはできないのだろうか。そうだとしたら、悲しい。だからこそ、こんな晩は、こんなライヴは、なかなかないんだね…」


 と、言った人がいた。
 それは、あの朝、私がパリの空港から電話をした人である。
 今年の七月十一日の晩、氏はよくギターを弾いた。少し酔っていたようにも感じたが、実際、私は彼の背後に立ちながらその鋭い音を聴いていたのだ。彼は、良い演奏をした。


 この夜、二十年、二十五年、いや、そろそろ三十年になろうとしている多くの友人、知人にお会いしながら、様々な記憶が甦ってきた。私、が、私たち、が、今より若かった頃…当時、初めてお会いして"大きな人たちだな"…なんて感じた人たち…または、同じような年齢の人たちとして、これから、を眺めてきた人たちあの頃の人たち…。
 それは一昨日前の晩を、それぞれの生活や環境に今在って、共にすることができなかった人たちとの思い出も含めてである。


 …余談だが、二年ぶりにお会いした小玉和文-兄…氏の、私を孫娘をみるような目つきに苦笑させていただいたが、相変わらず、である。私はこの人が好きだ。


 写真は、このライヴではサキソフォーンとベースも担当された福島ピート幹夫氏と松竹谷清氏と私。
 終演後、この写真を撮影してくれたのはギタリスト、桜井芳樹氏。


 出演者の皆様、そして何より、松永望さん、本当に、お疲れさまでした。
 本当に、本当に、素晴らしい一夜でした。




 Risa Sakurai / 桜井李早