カルメン・マキさんと
カルメン・マキさんがとても美しいカーネーションの花束と共に訪れてくださった。ふたり、私がマキさんに提供させていただいた曲を歌う。実は私は最近リンパ腺の腫れと痛み、悪寒がつづくという日々なのだが、マキさんと歌っているうちに、この日、私の身体は良い意味でゾクゾクしてきた。
詩はガルシア・ロルカの「望みのない恋」。前回のマキさん自らお書きになった詩、「デラシネ」に曲をつけさせていただいた後の第二弾だが、こちらは「デラシネ」とはまた異なる、退廃と不毛、なぐり書きかとも思われる荒々しいまでの詩人の心臓の苦痛をいかに受け止めるかが、私の曲作りの醍醐味となったといって過言ではない。
ここでそのロルカの詩を…どうぞ…。
"望みのない恋"
夜はこばみ 来ようとはしない
あなたが来れないようにするためだ
わたしが行けないようにするためだ
だがわたしは行くだろう
サソリの太陽にこめかみを喰われようとも
だがあなたは来るだろう
塩の雨に舌が焼けただれても
昼はこばみ 来ようとはしない
あなたが来れないようにするためだ
わたしが行けないようにするためだ
だがわたしは行くだろう
へし折れたカーネーションをガマガエルどもにまかせて
だがあなたは来るだろう
暗闇のどんよりしたゴミ捨て場を通って
夜も昼も 来ようとはしない
わたしがあなたゆえに死ぬようにと
あなたがわたしゆえに死ぬようにと
poem: Federico Garcia Lorca / フェデリコ・ガルシア・ロルカ
詩人は、"夜"と"昼"に向けて、「…だ」、「…ない」と言いきりながらも、"あなた"と"わたし"には、「だろう」という期待を求めている。
だが…"だが…"…"夜"と"昼"もまた、"あなた"と"わたし"の姿でもある。
詩人は「へし折れたカーネーション」と自らについて言い、「暗闇のどんよりしたゴミ捨て場」という言葉を恋人に当てはめるが、それらの言葉たちには性的なニュアンスをも感じる。しかし、それは言葉であって、詩人はただ、快楽を求めているわけではない。
女は或は、娼婦かもしれないし、ジプシーかもしれない。
その恋は、どうしようもない恋であり、『望みのない恋』と詩人は名付け、一種の苦しみを受け容れる事を望むかのように、逢瀬を夢見ている。
言葉にしたところで発展する可能性が見当たらない、悲しい詩人の吐露である。
だが…"だが"…この詩で歌おうと感じたマキさんの想いと、ロルカの人生の裡にあっただろう…"だろう"情景は、私の創作意欲にすこぶる影響を与えた。
だから私は、私の生涯における、ひとつの"絶品"をカルメン・マキさんに提供させていただこうと心して、作曲した。
これは、ひとつの"アリア/Aria/Air"だ。だが…"だが"…レシタティーヴォは要らない。
そう、それは本当に歌うために難しく、かつ、美しいと、言いきることができる音楽だ。
マキさんはこの歌を、「私にしか歌えない曲」と言って、褒めてくださった。
私、Risaは、私にしか書けない曲として、マキさんに提供させていただいた。
今年、2013年の初夏に向かう頃、私がやることができた佳いお仕事である。
マキさん無しでは、このような創作への角度が私の裡に、起こらなかったかもしれない、鋭い、ひとつの機会だった。
そうして、私はこの曲が、皆さんの前で、マキさんの素晴らしい声で奏でられる日が待ち遠しい。
甘い死臭を伴う南の世界を私に強烈に感じさせたこの詩への作曲は、私をまた、育てるだろう。
...今、静かに、昔を夢見ているようなカーネーションの花々が生けられた花瓶の脇に、横たわりながら...。
pic1: カルメン・マキさんとリサ…カーネーションを抱いて
pic:2 マキさんの花をハロウィーンの日に握りしめた私
Risa :*)