ケフィアとミシュレ



  




 先月半ば過ぎから最近まで、まるで無菌室に暮らすようにしておりましたが、漸く少し元気になり、そして何気に涼しくなってまいりましたので、ケフィアを始めてみました。
 何故かジュール・ミシュレの『フランス革命史』など読みながら…これはミシュレらしく、とても詩的な文章で綴られた書物で、私が随分若かった頃、ひとりの若い数学を専門にしていらっしゃる父の友人の方からいただいた一冊でしたが…一昨日前から昨日にかけて、このケフィアの種が上手く醗酵して自家製ヨーグルトとなってくれるのを24時間、待っておりました。
 無菌室に暮らすように、といえば、ケフィアこそ、清潔に育てなければならず、使用する容器を煮沸したり出来上がったヨーグルトを取り出すにも匙を煮沸したりと気をつかうわけですが、そういう事も、何か余計な事を払い除けてくれるようで気持ちが正される思いが致します。だって、人間の道には邪な事共がつきものですしね、それを避けて通ろうとしても、やはり汚されるわけです。汚されるというと、聞こえ方は悪いですが、その汚れが日常の中にある様々な黴菌のようなものだったとして、人はどうしても生きていくうえで、それらの黴菌と共存する必要があります。ですからこちらも善い菌を持って少しでも強くなるよう、心がけていかなくてはなりません。
 代々木公園の蚊ではありませんが、こちらからわざわざ其処へ出かける事を避けていても、蚊の行動範囲が半径50メートル程だとしても、その蚊がたまたま強い風に飛ばされながら移動し、たまたま電車に乗ってしまい、とある駅で下車すれば、無賃乗車のこのウィルスを持った虫はやってきます。まるでウェッブを開けばあらゆる事が目の中に飛び込んでくる事や、コンピュータウィルスにいつの間にか感染してしまう偶然にも似た出来事です。幸い私はデング熱に悩まされてはいませんし、私のコンピュータもウィルス感染した事は一度もありませんが、時には隠れてしまう事もいいものです。"刺されて応援"…なんて、厭ですもの。




 ところで、この『フランス革命史』からの言葉ではないのですが、ミシュレは別の書物の中に、このような事を書いています。


 < …薔薇を摘んではいけない。摘んだら口がきけなくなってしまいます。自然の懐から引き離されると、薔薇はあなたの胸の上で枯れてしまい、あなたはその香りにただ酔わされ、悩まされるだけです。


 < …あなたは行ったり来たりなさいます。あなたは動けるように造られた。ところが私は茎にくっついたままなのです。あなたは平静な私を感嘆なさいます。それは私が与えられた調和を忠実に守っているからです。


 < …私は挿されるための玩具ではありません。私は或る秘儀を完成するためのちゃんと意味の或る被造物であり、生命の力強いエネルギーであり、作られた作品と同時に作り手でもあります。私に与えられた時間は短い。私は或る偉大な事、つまり神聖な一種族である『薔薇』の不滅を確かなものにしようと急いでいます。


 < …私には茎があり、そこにしっかりと付いています。あなたの胸の上で死ぬのは光栄な事ですが、私を清らかなままにしておいてください。そしてあなたも清らかで豊かであってください。


 これらはミシュレが、女性と薔薇を対話させる事で、愛について綴っているのですが、西洋では、愛について語るためには必ず、神の愛=信仰に基づく思想を持ち込む姿勢があります。ミシュレが「秘儀」という言葉を使うのもそれが理由しての事であり、その秘儀とは「種族の不滅を確かなものにする」ことです。当然、私たちは地球上に生きるのどのような種(たね)をも滅ばせたくないと願いますが、そこに自然を敬う、自然のうちに全ての生き物が存在しているという事を疎かにすると、滅びる種も出てきます。神とは自然であり、人(ヒト)のような形をした物ではないと私は考えますが、そこでミシュレが描くには、上の文章にうかがえるように、薔薇という植物にものを言わせる事によって、愛の秘儀を人間中心の世界から引き離し、更に崇高な、そして無垢そのものであるかのような気高いものとして著そうとしているわけです。
 擬人化を用いて綴る事は、お伽噺のごとくですが、そこには自然界が共存するための奥義の顕れで、ここで薔薇が、「神聖な一種族である『薔薇』の不滅」を実現しようとしていると言う意味は、単に薔薇自らがひとつの被造物としての役割を語っているだけで、決して、他の種族を滅ぼして自らの種族のみを残したいとする種族主義(或は民族主義)を目指しているようには受け止められません。




 では、ここで、『フランス革命史』からのミシュレの文章を少々、引用します。


 < 笑うべき、涙ぐましい偶像崇拝。……この王国、この神は、何をなすか。彼はこの社会を蝕む根深く隅々にまでゆきわたった病気。社会を変え、餓えさせ、その血を飲み、骨を枯らす病気を治そうという強い意志も持たず、おそらくその力もなかった。
  この病気とは、最も高い所から最も低い所まで、しだいに少なく生産し、しだいに多く金を払うように社会が組織されていたことである。


 どうでしょう、このミシュレの言葉は、どこかの国の代表者(たち)の事に似てはいないでしょうか。
 これは19世紀に書かれた本。
 今は21世紀、人間はそれでも、"それ…"を繰り返します。

 


 私はせめて、このケフィア菌など宅で育てる事で、自らの肉体という王国を少しでも長く保つ努力をしながら、被造物としての私の役割を急いでみる必要があるのかもしれません。




 それにしても、上の写真、フランス人によって書かれた本、スペイン製の器にコーカサス地方ケフィアヨーグルト、そこに差し込まれたハイデルベルグで購入した銀のスプーン、というふうに、節操はないらしい私であります。



 
 Risa Sakurai / 桜井李早