Just the place to bury a crock of gold...







 吉田健一氏の素晴らしい翻訳で何度も読み、1984年英国グラナダ放送で観る事ができたこのイヴリン・ウォーの著作『ブライズヘッド再び』を今、原書で読みはじめている。翻訳も好きだが、英文を読みながら言葉の使い方の妙に驚く。
 物語は私にすり込まれている、が、それでも英文を訳すとなると、所々、丁寧に辞書を使わなければならず、ゆっくりと学ぶようにして原作を読んでいる。
 それは時の流れを忘れてしまいそうな心地だが、ウォーの人生における一時期の回想を委ねながらの創作とはいえ、この文学の誉れを思えば、私が生きて来たうちのしばらくを、ゆったりと使う価値がある。この小説は私にとってそれほどの作品なのである。
 思えば私がこの物語に出会ったのは、1992年頃で、私は当時、学校で音楽を教えていた。教える立場でありながらも、自ら学ばされる思いがしたが、20年以上の時が経ち、私は再び、地味に自らが好む所の、心から離れない、言ってみれば、"執"のようなものに触れてみたいのだろう。

 
 "Just the place to bury a crock of gold, I should like to bury something precious in every place where I've been happy and then, when I was old and ugly, and miserable, I could come back and dig it up and remember"

 ~Sebastian Flyte




 また先月は、カズオ・イシグロの『日の名残り』を読んでいたのだが、こちらも見事な英文学である。


 『ブライズヘッド再訪』は少し前に映画化されていたようだが、グラナダ放送の長いドラマ仕立てがあまりに佳く、この番組では語り手のライダーのナレーションといい、シナリオも原作に非常に忠実だったため、未だ映画を観るつもりになかなか、なれない。
 『日の名残り』は随分前に映画化されているが、原作を読みながらじわじわと感じていく語り手のスティーヴンスの自らを無に過ごすような執拗さが映画ではどのように表現されているのだろうか。この作品は1990年代初頭だったと思うが、執事とミス・ケントンが再会する事だけががこの物語の醍醐味ではない。そこには、主人公が辿った人生の裡に限りなく貴いとされた執事としての役割=忠誠と、英国に昔から宿ってきた品位への意識の究極のこだわりがあり、戦争によって、その趣が変化し、その変化に柔軟になれないひとりの執事の不幸があるという表現が見えるのだ。
 この忠誠心についての心意は、どこか、日本人にも共通するものがある。
『ブライズヘッド』、『日の名残り』、どちらの物語も、一度、映画で観てみたい。
 しかし、原作は、私に鋭く、美しく、麗しく…墓場にまで持って行きたい書物たちである。


 そう、私はこれらの本たちを今は埋めはしない。
 ただ私が葬られる時、ビートルズのレコードたちとともに、私の桶に入れ、燃やしてほしいのだ。




 李早