「秋は人さらいのシーズン」- 桜井李早© 著書『YES』より



 秋の黄昏時は、一年の中で、最も、妖しく、人をさらう。
 秋は、人さらいのシーズン。さすらいでは、ない。人さらい、これが今の、私の旨。
 春の夕刻は、甘い若葉の香りと、空から降りて来る無数の紫が交差し、蝶の出現を待つ植物的な私は微睡み、夢を愉しむことも容易である。再生と長閑な道が面前に現れ、昔、この季節に狂う人があったなどという気風を、厳かに迎え入れたくなる。
 夏ならば、私は強烈な陽射しに背中から抱きすくめられているような日中の陶酔から醒めることを嫌うだろう。だが、その私の欲望が、夕陽とともに沈んでいくことに感謝するかも知れない。ここには、秘密を包むための微笑を浮かべる余裕さえある。
 冬、その黄昏は儚く、が、「暖」をとることで安らぎながら、私は受肉と再生と永遠を卓上に呼び寄せ、働き者の時の足を引き止めるだろう。顔の無い相手と「談」をするように、読書をしたり、音楽に耳を傾けたり。灯される火は心地よく、黄昏の細い視線と役割を交代し、寒さから人たちを守ろうとする。


 迎え入れる、余裕、守る……これら三つの季節に視る黄昏の情景の中でなら、例えその時刻に魔性とばったり出逢おうとも、私は迂闊に惑わされる必要はない。
 ところが、秋は、どうだろう? 実に、不確かな表情をたたえながら、私の日常にそっと押し入り、私を、さらう。さらわれるのである。書き損じの恋文を机の上に残したまま、私の姿は窓辺から居なくなる。仮に私を探す人があっても無駄である。私を追うなら、虚空の世界に迷い込むための札を、叢から拾い出さなければならない。黄昏時に、それを見つけることは難しいだろう。
 彼、秋に、羽根があるようには思えないのだが、私たちは風見鶏の周りを一巡りし、その尖った頭を軽く踏みつけ、更に高く飛び上がる。あっという間に城壁を越え、その外側にある侘し気な処刑場の上を駆け抜け、古の書物の色褪せた世界、雨風によって朽ちた落葉の間を縫うように、黴臭い迷路をスルスルと通り抜ける。やがてオルフェが冥府の旅を終える時のような一点の光に吸い込まれたかと思うと、壮麗な石段の連なる遺跡に遭遇する。私はそこで漸く自分の足で立つことを許される。
 私がそこに視るのは、水が引いた後の、湿り気のある神殿を思わせる憂愁漂う景色で、そこで私は、秋と私以外に誰も居ないという孤立感に胸を締めつけられる。略奪された私は、彼と自分とのあまりに極端な絆を意識させられたために衰弱しそうな精神を奮い立たせようとする。ああ、私はこの秋に復讐しよう。何故なら、彼が私に示そうとするのは、裏の行為なのである。その裏、もしくは地下な感覚に、静かに静かに、おとしめられて行こうとしている私は、服従と畏敬を抱きながら跪き、秋の接吻を待つ。その時、秋は、私という、やる瀬ない魂を捧げる覚悟をする反面、心密かに復讐を企む女に、初めてその本性を現そうとする。
 鈍い陽射しを背に受けて、審問官のように立つ彼は、優雅な声で私に語り出す。それはモラルを外れた神託。

 
 肥沃の秋とは、よく言ったものである。
 この季節、私はさらわれたことを言い訳に、深く腐食し盛り上がる、秋の大地の妻となる。




 ~桜井李早© 




 上の文章は、拙著を読んでくださった方々から、有り難くも特に、多くのお褒めの言葉をいただいた作品のひとつで、私が音楽のライヴを行った際も、朗読させていただいたものです。
 picは拙著の表紙です。
 このような形では二度とできない、と思いながら、協力してくださったスタッフの方々と共に作った、それはひとつの本です。