- 座る -



 わたしにとって、今年の夏は大事な、大事な夏であった。ゆえに、個人的に在り、あまり余所の事にかかわらないまま、暮らした。
 来年の夏も大事だろう、再来年も、そうだろう。
 この秋も、大事な秋という事のできる秋であり、その次の季節も同様だろう。


 先日はお墓参りをした。わたしの実家は禅宗である。父方の祖先も母方の祖先も同じお寺に埋まっている。子供の頃から、お寺に行く時はいつも天気が良く、それはお盆やお彼岸と限らずであった。
 だからわたしはお寺が好きであり、お墓が好きだ。今、わたしが暮らす土地にも禅寺があり、そこの敷地にある地蔵堂は国宝とされている。わたしはその禅寺を季節きせつ、散歩を兼ねて訪れるのだが、わたしの知る人がそこに眠っているわけでなくともわざわざ墓地にも足を運んだりする。決していたずらに墓地を歩くのではない。そこに行くと、生きる人たちのたゆたう心とは別の沈黙の心が植え付けられているような気がして、落ち着くのである。
 死びとに迷いなどないと考えられる。
 ただ生きている者のみ、迷いが与えられ、そこに完璧も見当たらなくても宜しい、と言われるような––これはわたしの生き方の甘さが捩れ、そのような救いを求めているからかもしれないが––それでも、そのように生きる事への疑問がやや正される、というか、わたしのような者でも生きて暮らしていいのだと許されているような心持ちになることができるからだろうか… 駄目だね、こんな事では。

 
 わたしなど、どうせ極楽にはゆけない者である。
 これ幸いと、竿の先にとまる赤とんぼのように、里に産まれたら、そこを去り、色を変えて再びやってくる。
 ヤゴだった頃を、憶えてはいるくらいの僅かな進歩はあるだろうが、それくらいなものである。
 その赤とんぼを柔らかく迎えてくれた家族があった。
 皆で鰻を食べた。
 夕立がくる夕べに出かけ、食事の後は、湿った残暑の空気が立ちこめていた。
 鰻は流れを縫い、焼かれたる我が身の証を曝ける如く。
 それは白く、一筋ひとすじを、「これがわたしです、わすれないように」と言わんがばかりにその命の道筋を声なき声として、香ばしい姿となり、重箱の中に治められる。
 一口齧ったときには、あら、薄味かな、と思いきや、ふりかけた山椒とともに噛み締めていくうちに、これでいい、これがいい、と感じさせてくれる見事な案配だった。
 鰻屋は老夫婦の商いで、その日の分がなくなったら、店を閉める、もはや常連客だけで商いをしていれば、ふたり、十分なのだそうだ。
 満願、という言葉が浮かんだ。
 生憎その夕、席に列する事ができなかった家人が残念がっていたので、次がありますから、と笑顔した。





 鰻を食べた後、わたしはすぐに眠くなる。その晩、わたしは22時頃には床についていた。


 今宵は虫の音など聴きながら、こうして座り、とりとめのないことをぶつぶつ吐いているが、それは、秋の呼びかけなのか、或いは夢の中で鵺の声など聴いたのか。


 何事もわすれず、心たゆたう事あっても、わたしの姿勢を保ちたい。

 
 暫く前から坐骨神経痛に悩まされつづけている日々、だから、上手に座禅とつき合うことは、わたしの理想の姿である。



 

 桜井李早の枕草子 ©