それを見ているのはではない、とあえて言うわ、本当に見ているのはですもの








 写真は先月、美しい緑の影に覆われた軽井沢の庭に立って。


 表と裏が棲み付いて当然でいられるような世界にすがりついていてはいけないわ。
 それは打擲の世。
 よし、貴方が神を信じているとして、では、そのような世界を許す神を、貴方は想像して愉しいだろうか。
 想像が創造となるとは限らない。
 命を軽んじるようなことを、人々が神と名付けたものがまさか作りそうにないと望むとか何とか考える以前に生身の人間は身を持っているからして更に、それ、つまり生命の安寧を正直に望むのみだろう。
 その望みは観念ではなく野生だ。
 私たちは神に造られたのではなく雄と雌のもとに産まれたということが真実で、その命が永遠ではないことを産まれた時から知っている、動物だからさ。
 いつかは死ぬと知っている以上、私たちはそこに至までの時を勤しみ、楽しみたい。
 夢さえ見たい。
 ありふれた言葉ではあるが、夢のような一生であると思いながら目を閉じたいだろう、皆。
 それを邪魔されたくないのだ、それはわたしの利己主義或いは個人主義かもしれないが、そうなのだ。
 産まれたものならどのような生き物でも、<残酷な、過酷な生>や、この頃で言われる<格差>などという言葉とは当然無縁でありたいはずなのに、何故それを問題にするのだろう、人は。
 その当たり前が通らない世の中なら、わたしは、御免だ。
 御免などと言うものは、真っ先に打擲されて然りかもしれないが、もう少し、あの十字架の下にある白い花の輪のように、枯れるまで、枯れるまで。


 *


 そして以下の言葉、何処かの国の権力者たちにこの21世紀、改めてお伝えしたい所。


「元来をいうなら、義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです。…金力についても同じ事であります。責任を解しない金力家は、世の中にあってはならないのです。
 …かい摘んで見ると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。
 これを外の言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍言い換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他の妨害をする、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。随分危険な現象を呈するに至るのです」


 ~ 夏目漱石の言葉






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