- "Many a slip 'twixt the cup and the lip" -



 漱石の文粋は多々あるが例えば『猫』において、"月並み"という言葉に「馬琴の胴へメジョー(Major)・ペンデニスの首をつけて一、二年欧州の空気で包んでおくんですね」と迷亭氏に語らせるあたり、明治人に解り難かろうがそれ、現代もジョークを解せない人には見逃され伝わらないひとつかな。
 "月並み"とは、正岡子規が、毎月、一定の日に句会を開催する旧派の集いを評して<月並み俳句>と呼んだことからこれがありふれていいるという意味として世間一般に広まっていったことが発端で、その言葉が日本語として広められたという意味では、子規の持つ個性的皮肉の表現が新しい日本、つまり明治に咲いた日本語の気質ある意気込みとして気のきいた言葉の例のひとつでもある。
 わたしたちは今や、"月並み"という言葉に慣れている、人類も月に行ったとされる20世紀を経ているのだからして、そこで、はて、そう考えると、"月"と"並"とは、そう、遠くないのかもしれない。

  
 秋らしくなってきた今日この頃、その近くて遠そうな月を、並な角度から眺めるのが愉しみとなる宵。





 ここにあげた写真は、かつて宅で"ロンドン"と名付けた猫のものである。
 あまりに庭先でニャーニャーと鳴いているので気になってみると、それは以前飼っていた猫によく似た者だった。
 あまりに空腹そうなので、パンを差し出したが、匂いだけかいで食べようとしない。
 ハムを千切り差し出したら、「ウムフムニュム〜」と勢いづいて食べ始めた。
 …贅沢な奴… と思いながらも翌日から生活を共にした。
 それは短い年月だった。


 "Many a slip 'twixt the cup and the lip" という言葉を以前、わたしの漱石はわたしに教えてくれた。
 それは、人間、何時死ぬやらわからない、という意味らしいが、一見英文でありながら、それは古、ギリシャ人の下男がその主人に向けて予言的に発した言葉がもととなっているのだとか。


 このごろ、それは今、21世紀なのだが、相も変わらず、どこの国が、とか、どこの民族が、とか甚だしく差別的混乱があちこちで起っては人びとが争ってやまないが、" Many a slip "twixt the cup and lip"を"近くて遠い杯と唇の間に多く過ちがある"と解釈し、それが世界と考えると、わたしたちの意思の疎通とは、はなはだ難しく、遥かギリシャの時代、いやはや、幾千年万年の昔から、人類とは平気のへいさで我が儘を通し、それが通らなくば癇癪を起こすか、首つりでもするようにできている、甚だケッタイな存在なのかもしれない。
 だって、猫は自ら、首つりはしない。

 
 だからといって、猫生が豊かかといって、それも不確かなのであろう。
 同じ猫同士であっても強きもの弱きものあり、そこへ厄介な人間という種類が関わってきたりしたら、猫族本来の力というものも変化、或いは弱体化してしまう。
 居心地の良さそうな環境は甘いだけに、毒もある。


 愛した彼の猫-ロンドンは、或る日突然、野生の命じるまま男らしく冒険の旅に出かけ、傷つき、病魔におかされ、一度戻り、再び行方をくらませ、闇にあり、ひと鳴き、弱き声を五月の真夜中にこちらに伝えたが最後、その行く末を告げぬまま、わたくしのもとを、永遠に去った。
 恐らく、命が絶える寸前まで、姿をわたくしに現さないまま、それでも、彼はわたくしを見ていただろう。
 月がわたしを見ている、それは並んでいること、と解釈してもいい。
 何も、遠く、高い所とこちら、地にへばる者との境界などものともせず、天も地も同様。
 天国も地獄もなく。
 ここに生きているのだから、それでいいじゃない、と。
 尽きたらはい、そこまでよ…それは愉しかった。
 と、どの季節を選ぶでもなし、並にあり、月がそこにあると感じられたらその時、幸いだろう。


 冒険するのは生物の性かもしれない。
 しかし、そこに杯が待っているとは限らない。
 教訓として、人間は奢りたかぶるときこそ、危機なり。


 このことは、猫生とは、異なる。
 わたしが感じるに、人間以外の動物には、奢りなど、ない。
 確かに強きもの、弱きものはある。
 だが、正義などという精神は、人間以外の動物には無用だろう。
 彼らはそもそも、そんなことを考えずとも、自然の中で生きていける。
 わたしはそれこそが、生命の力なのだと最近感じる。


 "Many a slip 'twixt the cup and the lip"


 その有様は、あまりにも人間的な見地でもの申すわけである。


 故に、漱石の『猫』が、わたしには愛くるしく、愛くるしく、だけでなく、漱石の胃痛まで一緒に背負って(それは常ではないが)、昭和、平成の異端者と、これを半世紀過ごし願わくば更に乗り切りる覚悟の<おちこち>、現在37~8キロの動物が、どうやらわたしである。


 このような<おちこち>類は、わたしの身近にもあるだろう。

 
 詰まらないおはなしを、失礼。
 このごろは、寝言だけでなく、歌なども、歌いながら過ごしました。

 


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