Baccaratのグラスと"付喪神/九十九の神"








 それは2日前の事である。
 愛用していたグラスが、私の手の中で割れたのだ。
 それはバカラのグラスである。
 それは頑丈で、輝いていて、感触は滑らかで、とても好きだった。
 彼女が壊れる瞬間、「あっ…」という声が聴こえたような気がした。

 
 その夜の夢は不思議だった。
 私は夢の全てを覚えていないが、櫛で髪をすいていると、何か変なのだ。
 よく見ると、櫛の歯がずいぶん欠けている。
 私はその櫛を、かれこれ20年くらい、毎日使用している。
 ただ、その櫛は以前から、一本だけ歯が欠けていた事は事実だった。


 翌日、夢判断などしてみる。
 櫛の歯が欠けている夢というのは、どのようなものか。
 それは良くない夢らしい。
 そのような夢をみることは、病の暗示があるということらしい。
 だが近頃、私は節制しているためか、体調はそれほど悪くは感じられない。


 古く日本には、"付喪神/九十九の神"という土着した信仰(animism)があったが、ご存知のように、これは"物"に憑く精霊のことである。
 それが人間でなくとも、万物は、長く存在すると、魂を持つようになると信じられてきた。
 それは迷信事とされる謂れがあるかもしれないが、弱き人間が"畏れ"というものを内面に置く以上、全ての物を慈しむという観念であり、私はそのような古来からの日本人の精神生活の在り方を美しいと思ってきた。
 "自分を労るように、物をも労る"、という心である。
 それをキリスト教でいうならば、
 "汝を愛するように、他人を愛しなさい"、ということになるが、日本人の古い信仰には、"他人/他者"だけでなく、"万物"を愛しなさい"、というメッセージが伝えられている。
 それは全ての物に"神"が宿るということである。
 そして"神"という名をつけられて継がれてきた、あの"付喪神/九十九の神"の"神"とは、"神"という言葉を人間の"髪"に喩えながら、つまり、'長く伸びる髪とは長く存在した物のひとつの象徴であり、それはあたかも魂を持った神のごとく'、という例えとされてきた。


 そこで、私の割れたグラスと欠けた櫛の夢の関係を考えるわけである。
 グラスは、まるで『身代わり守り』のごとく、私の代わりに果てたのかもしれない。
 いや、そうとも限らない…だって、欠けた櫛の夢をみたことの方が、グラスが割れるより時間的には後だった。
 しかし何故か私は、このパックリと、一瞬にして、まっぷたつになったバカラの姿と音を、不吉とは思えないのである。


 この割れたグラスを、供養したい。
 そんなことを思ったら、8年前に訪れた京都の宝鏡寺(人形供養の寺)を思い出した今宵である。
 それは父と訪れた数度目の京都であり、私と父は、それが最期の父娘の旅なのではないかとお互い察知した。
 が、私の父は今年、御年83歳になったが、彼の世界における仕事という分野において、世間様のお役にもたちながら生きている。
 父はあの時、私と一緒に宝鏡寺を訪れなかった。私は朝のうち、三条からタクシーでその寺に向かった。
 父は私を放ち、彼自らが廻りたい場所を訪ねた。

 
 宝鏡寺には、人形を象った石像があるが、そこに彫られているのは、武者小路実篤のこのような歌が刻まれている。




  人形よ 誰がつくりしか 
  誰に愛されしか 知らねども
  愛された事実こそ 
  汝が成仏の誠なれ 


             武者小路実篤




 人形塚ならぬ、ガラス塚とは何処に。
 いいえ、美しいものは、葬るには、心苦しい。


 いつか、ガラス工房か、もしくは、ガラスアートをされる人に依頼できる機会があったら、私はこのガラスを、一度溶解していただき、これを新たな"物"として、甦らせたい。


 そうして今、父と共に訪れた京都にて購入した清水焼のマグを改めてつかっている。
 そのマグも大分老いてきて、青さは失われてきつつあるが、そこに焼き付けられた日本の春の象徴ともいえる花の模様は相変わらず、私の日々を優しく見守ってくれている。




 Risa Sakurai / 桜井李早©