- 独り言はいいね、例えば中秋の名月に「わが情 ゆたにたゆたに 浮ぬなは 辺にも奥にも よりかつましじ」/ 万葉集 - 



 近頃移動の多いわたしは所用で軽井沢に。それが午前中に終わり、道行き上、昼食は万平ダイニングへ。
 こんな近況を綴れば「贅沢な」とどこかで揶揄されることも十分承知だが、ここに来ると昔からわたしの気持ちは自由になるのだから仕方が無い。
 食事は何でもよいのだが道行き上、昼のメニューとなった。
 ここに来る度に感じるそれは他とは異なる薄い味付けがわたしに「これね」と実感させる。
 一口入れて、「美味い」などと、恐らく昨今の味覚通の人が実感されるかどうかわたしには解らないし、その料理を味わってコストパフォーマンスなど期待する人たちからは必ずしも満足されるかどうか知れない。
 だがわたしにはここの味が馴染んでいて、食事の後、決して喉が渇いたりしないところが良いのだろう、それは特に、ここのスープに言える。
 以前、新緑の頃、それは晩餐のメニューであったが、ジュンサイ入りのコンソメスープをいただいたことがあった。それは食した後、その味を忘れてしまう程あっさりしたものであったが、ジュンサイの滑らかな舌触りが何だか人の道を邪魔しないように仕立て上げられているようで感心したことがあった。
 わたしが子供の頃から知っている軽井沢という土地であるが、今日、変化を重ね、緑の中、新たな料理を提供するレストランも増えているらしい。
 それでもわたしにとって、軽井沢を訪れる時の万平は、言葉に尽くせない居心地の良さを感じさせてくれる場所のひとつである。
 ずうずうしくパンをお代わりしたり、ワインを、と言いながら直ぐ後でやっぱりビールを先に、とか言ったり、何か独り言を言うようにしながらそこに居るのである。
 老舗ホテルであるのだが、ここは予め快適に金をかけてつくられた現代型のホテルよりずっと心地よい。
 オーナーが変わったようだが、それでも施設の佇まいは相変わらずであり、飯の味も代々変わらないシェフの志向、というのが一応、21世紀の頭を和らげてはくれる。
 その日の昼のスープは「カボチャのポタージュ」、器にくっ付いたスープの残りをパンに擦り付けて残らずしっかりいただいたそれは、やさしい母のような恋しい味だった。
 日本人には味噌汁の味、それは母の味だろう。
 どこの国に在っても、人間が考え、こしらえるものは、試行/志向/思考…施行…が異なりはしても、同じことなのである。
 何故ならわたしたち、皆、同じ、地球に生きるものであり、そのものたちの求めるもの、必要なもの、存続したいものとは、わたしたちの思い計る行為の原点らしきものから発生し、ではその道行きを照らすものとして、あたかも月のごとく、この地上に生きるものたちの心を明るくするものとは…ああ、それはこの地球に在るものたちが生き、豊かに在るために続いていく糧…噛めないならばスープを、寒いならスープを…と、生を守るために生きてきた女の仕事が欠かせなかっただろう。
 軽井沢に向かう朝、わたしは実家にて母の味噌汁をいただいた。
 そうしてそれは母を伴っての軽井沢道中ともなった。


 こんなことを綴っても、皆さんに今のわたしの心持ちが伝わるとは思ってはおりません。
 が、そういうことで、いいのです。
 これは独り言のようなものなのですから。


 しかし…


 独り言の多い人はもう一人の自分と付き合うのが巧い人。
 義務や権力から解き放たれた小世界を持つことが出来る人。
 今宵、中秋の名月、そこに月が見えたなら、例えばそれに向かって独り言のように話してみるとこちらが芝居をしているようで小気味よいものよ。




















 秋の万平 
 信州サーモンとキノコのマリネ 
 カボチャのポタージュ 
 仔牛のカツレツ 
 鰆のポワレ 
 ダイニングテーブルからの中庭 


 デザートの頃には心地よくあり、確かヨーグルト風味のババロアであったようですが、ワインの味が残っており撮影など、厄介、やっかい。
 近況を著すにあたり写真が必ずしも役立つとは思えない今日この頃、その行為の負担ゆえ、わたしの近況は日々、乏しくなっております。


 ええ、こういう優美な(画像はガラケイでの撮影でありますが)写真を時々上げてみることも、21世紀風ということで、ひとつ、のりながら、月を写すのは難しいように、自らを映すのもはばかりまする、今日この頃。




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