- 鯖缶、裁かん、南岸低気圧への逆上の愛 -



 鯖カレー、か… 裁かれ、か… 
 そんなことを思いながら、今年の日本の寒い冬を憶えておこう。だがわたしの食卓は必ず、温かく在るのだ。
 なぜなら、冷えていてはわたしの脳は活動できず、必要なのは逆上であるらしく、それは漱石の『猫』曰く、逆上とはインスピレーションという、日本語とは別の言葉で表されることによって創造力を生み出すエネルギーとして一部のヒトに当て嵌められる要素であり、その逆上とは机上にあるヒトにとって、これまた別の言い方をすれば、気違い、ということでもあるらしい。『猫』によれば、全き気違いになることよりも、机上における時のみ気違いになることの方が難しいということで、それは最もなことだとわたしは思う。


 わたしは、天と、摂氏40度で年間契約を結んでもいいとさえ最近思った。
 何しろ、冬が極寒だったら、光熱費が高いこと甚だしく。
 日本の四季の移ろいは美しいものだが、その日本という国の、在り方ということについての移ろいはそう芳しいものとも今、正直感じられず、特にここ何年かの動向は苦しいと、このわたしのような者も辛いものを背負う覚悟で世間と顔を見合わせ、愛などという人びとが歓迎する大好物の温かみをわたしの試行において案配よく取り上げてみようかと試みようと、頭を天道さまに向ける。そうして『猫』の言うように、頭に余所ゆきも普段着もないのである。故に、わたしの頭は素朴にあり、そういう考えに沿っていくと、凡てのことは何かのせいにしたら、結論は容易く語ることができるが、そうしてしまうこと事態が、負の要因となるだけと察する。北朝鮮に限ったことではないが、ニュースを見れば襲ってくる、襲ってくると伝える。何が襲ってくるかは様々である。人たちは襲ってくると意識させられることで怯えたり、或いは騙されたりする。それは奇妙な世の中に変容し、弱い者は脅かされることによって心を失う。失うのは命だけとは限らない、形在る人間でありながら魂を損なうのだ、金など、何になる。ここで襲ってくるのは明日明後日も南岸低気圧だけではない。東京にやがてあるだろう五輪も、国自らが作り出した民人への襲撃とさえなりかねない気がする。


 そう、どうにも寒い。こういう時は、逆上したいわけで、だから熱いものを食べる。手間もかけたくないときたらこれ、鯖カレーだろう。
 鯖缶を買ってくる。トマト缶も。そうして家に大抵ある玉葱を軽くみじん切りにし、大蒜、生姜と共に鍋の中で炒め、そこに鯖の缶詰とトマトを入れ、ブイヨンとカレー粉でコトリコトリと煮込む、好きずきな時間で。それだけのことで温まる身体というものである。葉もの野菜が天候不良で高いなら、大根でいこうと大根サラダ、皆大好きなマヨネーズとオイスターソース、醤油を少々垂らして胡麻を忘れず、そういうサラダを酒のアテにしてやればいいだろう。
 鍋のカレーはふたりくらいの人間ではその晩食べても残る。残ったなら、別のものを入れて再び別の日に味わうこともできる。例えば、レンズ豆など、鯖カレーに加えてやると、ちょっとした変奏曲のようなものとなる。おや、こんなところに、と、棚の中にあったココナッツミルクなど少し加えてやれば更に変装(変奏)する。そうなると、ご飯ではなく別なものをと思い立つや、粉とオリーヴオイル、塩とぬるま湯というこれまた台所にある素材でベーグルを作ってみる。玉葱など入れて捏ねると香ばしく、塩気のあるパンはビールのおつまみとしてもよい。








 わたしは幼い頃からビクビクするのが厭なのだ。
 だから、自らが温かくなり、それこそ逆上の力を借りて、温かき食卓を守るために、卓上でひねくれていなければならないのだ。



 
 桜井李早の枕草子 © 





-『探偵はBarにいる』、という気分でした、今日は -



 今週末は少し寒い土地に向かう予定なので、今日のような暖かさは記憶に留めることにして、11月29日、今宵の晩餐はローズマリーを効かせたミンチボールのクリーム煮、グズベリージャムを添えて少々(とはいえ写真はお代わりしたものにございます)、と大根のステーキ柚チーズ乗せ。





 そうして明日も肉料理を作るのです。


 因に『探偵はBarにいる』という映画の一作目はカルメン・マキさんが出演され、テーマソングも歌っていらっしゃいます。





 11月、体調不良で悉く潰してしまったようなので、師走はとっとと進みたい。
 年末年始は好きなように、したいので。


 しかし今夜は眠れない、だから探偵はBarにいるというつもりになるのだろうね。
 あたし? 勿論、大泉洋さんになったつもり、よ、でも家に居て飲んでいるのですけど。
 どこかから、「李早、相変わらず、馬鹿か」という声も聴こえるような気もするけれど、そう、その声を聴くと、眠れるかもしれない。


 朝には家の前に瓶缶を出す。
 11月最後の日、ちょっと敏感な一日になるだろうから、今夜のうちは、飲んでおくのだ。
 とはいえ、ああ、ほんとにそろそろ、横にならなくてはいけないわ!




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- 幾つもの魂を持つ人のように、狂ったように生きてみたい -






 人聞きの悪いものを綴り怒ると熱となるのか、元気が生じた、と思いきや、先週末、本意でないのだが事情あって実家の方よりインフルエンザのワクチン注射をせよと命じられやむなくそれをしたら以来よく目が見えない。及び目眩、頭痛と腑抜けのような状態に在り、今も注射の痕は痛痒く腫れている。わたしはこういうものを余計なものと定義するが、世間ではこれを余計とするより安全とすることもあるらしい。被る前から備えることが得策と考えるのは人の賢さで、被って初めて知るのは愚か、と、そうさ、わたしはその愚かの部類にあるのだからして疫病に感染してのたうち回って死ぬのも覚悟なのである。が、それを他の誰かにまき散らすことは駄目なのだと、そういう行為は身勝手なのだと言われてしまえば、インフルエンザワクチンにいかなる物が混入されていようとも、わたしはわたし自身の命よりも、それによって被害を被る周囲の人びとの健康のため、ワクチン信者のため、意向を投げてみても平気だ。どうせわたしなんぞの命である。ここまで生きてこられただけで儲けもの、この先、生き伸びてしまってのち、そういうことこそ、末恐ろしいと、考えれば楽だろう。


 何を見ても、焦点が合わないのだから、こういう時、音楽が出来て良いと感じた。わたしはピアノを弾いた。小さな子供の頃から、それは馴染み自分事として弾いてきたので、鍵盤の上を指はただ、動く。わたしがよい弾き手かどうかはここでは問題ではない。そこ、が解っているから指はただ動き、心もただ動く。わたしは歌も歌った。歌えと言われればなんでも歌うし、歌いつづけたものもいろいろある。実にわたしはこの一年、朝の9時過ぎに、或る授業をしながら、歌を歌う。わたしが歌うこと、それはわたしの生活でありつづけたことだから、愉しい。目が見えなくても、音楽はなかなか楽しくわたしの生を助けてくれるのだろうと未来を見る、悪くはないだろう。


 そうして、よく見えなくとも、こうして自分が何か書いていることも出来る。書くということはわたしが生きていることを表していると言いたいが、今、綴っているような文章はあまり感心できないとわたしは思って書いている。そういうこともわたしなのだと思ってみようと思うがそれでもあまり感心できない。わたしには、もっと、片隅、と見なされるような、わたしが書いてみたいと模索してみる必要のある悪戯なことがあるのではないかと。
 例えばそれは、わたしがする、こういうことにも繋げられる。
 写真は或る日の晩餐。有り合わせのもので済ませたい。だが、一品ではつまらない。有り合わせを一纏めにしたら、つまらない。では、有り合わせを複数にするようにしたら楽しい、地味な甲斐がある。つまりそれ、ひとつがふたつになるようなこしらえ、それ、素直に、少し考えるための人間の気分の戯れである。


 人は、ひとつのことをするだけでなく、同時にふたつくらいのことをしていた方が、脳にもよいのだとか。
 というわけで作った李早風カエサル・サラダ、白菜とハムのグラタン、バゲット添え。本当はシコンのグラタンにしたかったが、シコンを白菜で代用した。
 ジャガイモ、レタス、人参、玉葱、白菜、それからハムなど利用すればひとつの鍋でもこしらえることはできる。だが、それらの食材を使ってふたつの献立にしたててみると、卓上が少し広がった印象となり、それらをつつきながら食事の時間も長くなり、お酒や会話も進む。
 わたしの時間とはそんな風に、ひとつがふたつ、欲をいえば、ふたつがみっつになるくらいのことを思うままにやってみるばかりに、それは余分な道を探し求めているようなものなのだが、そういう道草のような意識の流れの積み重ねなのだと最近感じた。
 できれば、幾つもの魂を持つ人のように、狂ったように生きてみたい。




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- 人の常、吉か凶か、今わたしが撲ってやりたい男 -






 半月風邪のため殆ど人にも会わずいたのだがふと耳にした件でわたしは今、撲ってやりたい男が一人いる。男はわたしの事を勝手に想像しそれを時に呑んだ相手に言ったという。この男が<歌手>であるのみならず近頃役者でもあるのが駄目だ。或る場面での氏の失態をその時その場に居た人びとに噂されることを危惧し保身、否、言訳のためにわたしを引き合いに出し利用している氏の意地は小さい。
 これが人の常、常といえば世間、そうして世間といえば噂、と、出物腫物所かまわずだかなんだかと言いたいが、凡そそのような問題の出所は恥をさらした当事者が自らの尻拭いを目的とした自己防衛という野暮な形式をとったはなはだナサケナイ愚行としての常套手段で、それは、それを受けた側からは思いもしない言いがかりとなるのは当然のことで、ハタハタ迷惑な贈り物であり、世間では時に、このような他者からの失礼を<名誉毀損>と名付ける場合もある。
 わたしはここのところ、案外忙しくかつ充実しながら慎ましく暮らしていた。それなのに、こうだ。つまり、静かに在る人をそっとして置かず、数年前の事を未だ抱き、他者へ無闇に唾を吐いて廻って生きる人が余所には在る、ということだ。そこにわたしは不平を持った。何だそれは、迷惑千万、一発、くらわせようか、と、その男に思ったのだ。
 その晩、つまり、わたしが撲ってやりたい男の噺というのは、数年前の暮の晩の事で、その人にとっては初めて会うひともあり、そしてそういう状況の時、その男は(氏を知る人たちにとっては、ああ、また始まったと見守るのが常なのだが)、何かと悪ぶるのが定番なのだが、それにしても、あの年末の晩の氏は、確かに酷かっただろう。
 だがそれは自業自得なのである。誰が善で悪ということでなく、潔くない様子とは、他者からの同情は得られぬからね。
 氏は、年齢を重ねるほどに<挨拶>が丁寧にできない人となりはじめているようでわたしは悲しい。
 本当の氏は、心遣いがある者のはずであろう、が、それを素直に表さない、表さないのは本人の勝手だが、他人を撹乱しないほうがいいと、わたしは感じて久しく、そうしてわたしどもは、わたしども、というのは氏を知るわたしの周囲の人びとのことだが、それを寛大に受け止めてきた、のだ、と、思うが、如何に。
 が、なんなのだろう、氏が作品を発表し、それが良い作品であることもわたしたちは知る、そして近頃、役者活動もされ、わたしはその作品をとてもよいと感じていた。
 それなのに、こういうことを彼はした。
 わたしについて言うこの彼の行為をわたしが知ることになったのは、家人が聞いてきたことによるのだから、厭なもんじゃないか。それ以上でもそれ以下でもない、ただ耳にした噺だが、愉しくないのだわたしはね、それが。
 それは粗相だろう…漏らすなかれ、あなたの… を、と、わたしは言いたい。


 ところで古くから女性たちは口の軽い殿方を信用しない。であるのに、昔など、女はおしゃべりで…などという云々もあったやもしれないが、今やどうか、例えば呑んだ席で噂話に花を咲かせるのは女性たちよりもむしろ男性たちと思って間違いはない気がする。21世紀、女性たちは会合しても噂話よりむしろ励まし合ったり、憧れを語ったり、真剣に仕事や家族、社会、未来の話をする(人に寄ると言われたら仕方が無いがわたしの知る女性たちは、そのようである)。では噂話と悪口は紙一重だが、わたしが呑む席で伺うのは、殿方の口から出る噂話や悪口は呆れかえるような内容もある。21世紀の殿方はなかなか、想像力に満ちていると評価したいが、話の仕方について、おおよそ酔っている殿方の中には、だんだんはしたなくなっていく姿も見受けられるので、例え佳いことを話しているとこちらが承っていても、どうしても呆れながら拝聴するのがこちらとしては楽ではある、こちらつまり、わたしは(これでも)女であるゆえ、効率よく人生を営んでいかないと駄目だからである。
 何かをしたからといって、仕事をした顔でいるわけにはいかずそれは当然の範疇であり、また、何をしていると訊かれても特に返答しても徳にあらず、ただ、ひととしているだけで、それはみんなおなじことだろうと思う。
 彼のひとは、音楽業で暮らして長いが家事もされている殿方であり、そのあたり立派だと感じ入っていたのだが、わたしに対しての無礼というだけでなく、仕事が長くなり積まれてきた成果ゆえか、以前にも増して年功序列的、男社会的面が目立つのも感心できない。
 余談だが、昔、或るコンサートがハネた席で、その公演で演奏された或るミュージシャンの方が同席していたわたしに向かって、「今日仕事をしたアーティストにお酒を注いであげなきゃ」と、それは愛想だったのだと思うが、そう、わたしにおっしゃったことがあった。演奏を披露する人たちにとってそれは仕事であるが、それを観に来た人たちはお客さんとして彼らを応援し、また、その出演者たちの仕事を日頃、或いはその日に心を寄せ支援している人たちも同じ人間なのである。<アーティスト>だから労うというより、では<アーティスト>なのなら当たり前に今日の仕事をしただけで、それは会社に勤める人たちも学校で一生懸命一日勉強した人たちも誰も彼もお疲れさまということで、特別な存在ではないとわたしは考えてきた。一々日々の仕事で日本国中の仕事人が打ち上げていたら、さぞかし日本の酒場は儲かり、日本人は毎夜まいよ誇りを持って眠れることだろう。だが世はそうでもない。常にそうであったら吉と言われよう。だからわたしは凶でも平気で暮らせるような面の皮の厚いものになろうとして、しかしこうして怒ってみたりしながら、痩せた身体を転がしているのである。
 わたしは正直、昔から、<アーティスト>という外国の言葉を使用する日本語が好きになれなかった。日本語として、<芸術家>という言葉があるのだから、その仕事に携わる、もしくは、関わっていると思うなら、そう言う/呼ぶことの方が親密だろうと感じていた。
 だが、この国の人びとは片仮名の文字で言い表す言葉を促進し、そのために職業における根本的な姿勢を見失いそうな場面もありそうで不安だ。� 
 わたしが撲ってやりたい男、その人は、古風な日本男子であろうとしているようなところもあるのだが、新しさと望郷の狭間に在って、今、森の中に迷っているのやもしれない。
 そう評価するなら、それも在りだろう。
 何しろわたしは、その男の将来など、面倒みる立場になどないのだからして。
 だが、名誉毀損、だけは、厭だね、場合によっては、告訴したいね(笑)。

 
 きっと、わたしを比較的よく知る人たちには、その、わたしが撲ってやりたい、と思った殿方が誰なのか、お解りかもしれない。
 怒るのも、たまには愉し、おかげで元気を取り戻したような、と今日は書いて置くが、それいじょうに、呑み癖の悪い男に打擲を加えることも世の女性にとって、少しは快感かもしれなくてね。 
 あなたのカミサンに、感謝して。
 文句のある人は、ここ<葡礼荘>へ、どうぞ、いつでもふたり、お相手いたしますゆえ。


 写真はわたしが時々お参りする神社の御神木。欅である。700歳といわれているその姿、或いは出っ張りの部分が女神のように見えるのだが、先日、抱きしめたくなりながらも、8mの太さゆえ大袈裟な気は起こさず、ただ樹木の中を揺れ動く流れを感じてみようと手を当てた。
 それは午前10時、曇った日のことだったが、樹が持つ温度はわたしが想像したものより、暖かく感じた。



 
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- 霧の軽井沢 -



 これは単なる備忘録である。雨でしかも霧があり、浅間山など全く望めない寒い軽井沢の10月。今年は何度かここを訪れることになっていのだが、それは愛着あるこの土地にこの年になっても呼ばれる筋合いだろうか。
 霧ふかくとも、この地に暮らす人びとはセンターラインさえ見えれば車を運転する。
 とある場所にいたわたしはあまりに煙草が吸いたくなり、一杯の珈琲も欲しくなり、外に出て、一番近くあった店に入った。
「珈琲だけでもいいですか? こちらは禁煙ですか?」と、わたしを出迎えてくれた店の人に訊けば、「そこに灰皿があります」と外にある木のベンチの上を指差された。
「では、一服したら中に参りますので、珈琲を」とわたしが応えれば、「はい」と笑顔が返ってきた。
 ベンチは軒下にあるので、わたしは肌寒いが傘をたたみ、濡れる必要もなく雨模様を眺めながら煙草を吸った。珈琲が待っていると思うと、早めに一本を吸うのがよいかもしれないが、愛煙家にとっては、その一杯よりもその一本であったりするのだ。天候が雨でもかまわない、その一本、それは自分の手で巻いた煙草だったりするので尚更なのだが、人が一息入れる状況に在り、それを急いたりしたくないのが人生の一時だろう。
 わたしはこの日、役割のために軽井沢に来ていた。だが軽井沢は大好きな土地故、どのようなことがあろうとも、わたしがこの地を訪れる場合、楽しい。愉しいという漢字を使ってもよいが、この土地を名指すわたしは、楽しいが、今はよい。
 土地の名というのは面白いもので、軽井沢は「かるいざわ」といわれながらも「かるいさわ」と発音されることもある。しかもイントネーションは土地以外で暮らす人たちと、その周辺に暮らす人びとでは異なる。
 店の中は時間が止まった、というようなありふれた言葉をよい意味で使用してこちらが恥じることない空間だった。喫茶だけでなく料理もある。わたしを扉の外から案内してくれたのは黒髪の初老のご主人だったが、わたしが愛すべき一服を終え、店内に入る頃を見計らって珈琲を持ってきてくれたのは白髪の女将さんだ。アンティークを扱っている店内では、時計の刻む音と、ラジオFM軽井沢から流れてくる静かなお話がわたしの一時を包んでくれた。
 このような写真をあげるのは甚だ愚かな行為だが、これはわたしの2017年の出来事の記憶として、ひとつ…こういうSNSやBlogにわたしがおらなくなることがあるとしても、こうして今、このことを置いておくことで、わたしが、忘れないために。


 ええ、また行かなければならないのだから、ね、そういうこと、だわ。








 写真は霧の軽井沢。そして美味しい珈琲。




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- 10月22日、何事も、いみじく-



 わたしの前は家人、その前はお年を重ねた小さな女性だった。10月22日午後3時頃、台風の接近で雨がよく降りわたしには寒かったのでダウンを着ながらでかけた投票場だった。そこで人びとが順番待ちをする光景がこの地域にも確実にあることが、余暇った(よかった)。
 因に、<×印>を付けることが求められる用紙に、わたしがひときわ大きな<×>を付けさせていただいた人がひとり、あった。



 写真にあるトマトジュースはいただいたものだが、この季節に出る地トマトジュースなのだそうで、その土地でしか販売されないものらしい。
 いみじく、美味しい。


 そうして、わたしはいよいよ、自分の思う間々に、我が儘に、言葉を自ら造ろうと思ったりした。
 これも、いみじく、ふむ。

 





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- 独り言はいいね、例えば中秋の名月に「わが情 ゆたにたゆたに 浮ぬなは 辺にも奥にも よりかつましじ」/ 万葉集 - 



 近頃移動の多いわたしは所用で軽井沢に。それが午前中に終わり、道行き上、昼食は万平ダイニングへ。
 こんな近況を綴れば「贅沢な」とどこかで揶揄されることも十分承知だが、ここに来ると昔からわたしの気持ちは自由になるのだから仕方が無い。
 食事は何でもよいのだが道行き上、昼のメニューとなった。
 ここに来る度に感じるそれは他とは異なる薄い味付けがわたしに「これね」と実感させる。
 一口入れて、「美味い」などと、恐らく昨今の味覚通の人が実感されるかどうかわたしには解らないし、その料理を味わってコストパフォーマンスなど期待する人たちからは必ずしも満足されるかどうか知れない。
 だがわたしにはここの味が馴染んでいて、食事の後、決して喉が渇いたりしないところが良いのだろう、それは特に、ここのスープに言える。
 以前、新緑の頃、それは晩餐のメニューであったが、ジュンサイ入りのコンソメスープをいただいたことがあった。それは食した後、その味を忘れてしまう程あっさりしたものであったが、ジュンサイの滑らかな舌触りが何だか人の道を邪魔しないように仕立て上げられているようで感心したことがあった。
 わたしが子供の頃から知っている軽井沢という土地であるが、今日、変化を重ね、緑の中、新たな料理を提供するレストランも増えているらしい。
 それでもわたしにとって、軽井沢を訪れる時の万平は、言葉に尽くせない居心地の良さを感じさせてくれる場所のひとつである。
 ずうずうしくパンをお代わりしたり、ワインを、と言いながら直ぐ後でやっぱりビールを先に、とか言ったり、何か独り言を言うようにしながらそこに居るのである。
 老舗ホテルであるのだが、ここは予め快適に金をかけてつくられた現代型のホテルよりずっと心地よい。
 オーナーが変わったようだが、それでも施設の佇まいは相変わらずであり、飯の味も代々変わらないシェフの志向、というのが一応、21世紀の頭を和らげてはくれる。
 その日の昼のスープは「カボチャのポタージュ」、器にくっ付いたスープの残りをパンに擦り付けて残らずしっかりいただいたそれは、やさしい母のような恋しい味だった。
 日本人には味噌汁の味、それは母の味だろう。
 どこの国に在っても、人間が考え、こしらえるものは、試行/志向/思考…施行…が異なりはしても、同じことなのである。
 何故ならわたしたち、皆、同じ、地球に生きるものであり、そのものたちの求めるもの、必要なもの、存続したいものとは、わたしたちの思い計る行為の原点らしきものから発生し、ではその道行きを照らすものとして、あたかも月のごとく、この地上に生きるものたちの心を明るくするものとは…ああ、それはこの地球に在るものたちが生き、豊かに在るために続いていく糧…噛めないならばスープを、寒いならスープを…と、生を守るために生きてきた女の仕事が欠かせなかっただろう。
 軽井沢に向かう朝、わたしは実家にて母の味噌汁をいただいた。
 そうしてそれは母を伴っての軽井沢道中ともなった。


 こんなことを綴っても、皆さんに今のわたしの心持ちが伝わるとは思ってはおりません。
 が、そういうことで、いいのです。
 これは独り言のようなものなのですから。


 しかし…


 独り言の多い人はもう一人の自分と付き合うのが巧い人。
 義務や権力から解き放たれた小世界を持つことが出来る人。
 今宵、中秋の名月、そこに月が見えたなら、例えばそれに向かって独り言のように話してみるとこちらが芝居をしているようで小気味よいものよ。




















 秋の万平 
 信州サーモンとキノコのマリネ 
 カボチャのポタージュ 
 仔牛のカツレツ 
 鰆のポワレ 
 ダイニングテーブルからの中庭 


 デザートの頃には心地よくあり、確かヨーグルト風味のババロアであったようですが、ワインの味が残っており撮影など、厄介、やっかい。
 近況を著すにあたり写真が必ずしも役立つとは思えない今日この頃、その行為の負担ゆえ、わたしの近況は日々、乏しくなっております。


 ええ、こういう優美な(画像はガラケイでの撮影でありますが)写真を時々上げてみることも、21世紀風ということで、ひとつ、のりながら、月を写すのは難しいように、自らを映すのもはばかりまする、今日この頃。




 桜井李早の枕草子 ©